父の遺言書 (2011.10.1) 

     父が亡くなってもう18年になる(1993.6.26逝去、享年84歳)。
   母はその10年前に亡くなった(1983.7.2逝去、享年73歳)。

    4年前香里園の実家をたたんだ時、捨てるには忍ばれる写真、手紙、記録、その他雑多な
   物を取り敢えずダンボール箱に詰め込み、ボクの書斎に運び込んだが、今まで放置していた。

    ボクの書斎は趣味の我楽苦多がいっぱいでいよいよ手狭になったので、処分がてらそれら
   を整理をしていたら、図らずも父の遺言書が出てきた。

    昭和18年、ボクが4歳の時、子供5人と妻を大阪に残し、徴兵され東京の軍隊で半ば強制
   的に書かされたと思われる母宛の遺言書だ。遺言書の他、遺髪、遺爪、写真がセットにされ
   保存されており、もし戦死した場合には、それが遺族に送られたらしい。
 
     ボクの両親は当時としては異例な小学校時代の同級生同士の恋愛結婚で、父は東京大久保で
   大きな経師屋を営む商人の一人息子、母は大坂夏の陣で有名な薄田隼人直系の荻窪の士族の長
   女で、両家の猛反対を押し切って結婚した。それが原因で半ば勘当された形で父は大阪に職を
   得、その年にボクが生まれた。父を大阪へ呼んでくれたのは当時の大阪府の教育長、後に大阪
   府知事を務められた赤間文三氏で、ボクの名付け親となり、文三の文の字をいただいたという。

    このような立場の父が遺した遺書があったとはボクも初めて知ったが、内容は以下の通りで
   隠すべき所は何も無い。一資料として公開した。

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                     遺言書
                             
                               昭和18年8月  大西 一男

 喜和子 殿

 1.戦場は男子の最高の犠牲の場なり。戦陣に没するは真に小生の本懐なり。

 2.一物の産無く多くの子供達を遺す事、貴殿の先々の苦労等様々に偲ばれて心痛し。だが一心に
  勉める所必ず希望あり。希望こそは光明なり。

 3.隣人の遺族に對する厚情に感謝するはことはよし。だがその情に溺れ、それに頼ることをする
  な。要は大いなる国家の恩愛の中に感謝して生きよ。

 4.子供たちの教育。これこそ貴殿の生活目標のすべてのものだと思う。願はくば男児は中学校に、
  女児は高等女学校に、教育の本道を進ましめよ。

 5.子供達は各々その子供達の志す方向に進ましめよ。軍人もよし、官吏もよし、教育家もよし又
  芸術家もよからむ。要は日本人たる事の光榮と感謝を知り、生活に純粋な感激を感激し得る如き
  人物を錬成せよ。
   だが、父無し子は兎角生活の構想に於いて極めて自信なく、引込思案なる者多し。指導大切な
  り。着実にして行動的な子供、常に発見的な感激に満ち満ちてる子供そんな子供に仕立ててほしい。
   尚、女児は年頃ともなれば、その心性のやさしさから母一人の当面の生活に對して心遣うあまり、  安易なる行動に出ずる事多し。かかる場合、母は一時の安楽を思はず、女性本然の立場より、一
  應同感感謝して、以て、その事の誤まれる所をさとらしめ、眞の母たる道を教えると共にその母
  たるの道に行ぜよ。

 6.小生の教え子を何時までも大切にせよ。

 7.子供達よ、荒怠相戒め、母に良き子たれ。しかして以て父の霊に應えよ。

 8.老境の両親をいたはってくれ。

                     以上

  天地の四恩を感謝す。別して父母の愛情は高く深くありがたし。今日皇国男児として悠久の大義
 に殉ず、以て今日までの愛育恩愛に感謝す。謹んで父母に傳へよ。
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  死を覚悟した妻宛の遺言書とすれば、父母への感謝、愛情の表現に比べ、妻へのそれが乏しいのは
 ボクにとって非常に不満であるが、軍部が作らせた遺書では、それについては触れられなかったろう
 し、明治生まれの男とはそんなものかもしれない。

  さすがに父は教育者らしく、子供の教育には心を砕き、また教え子に対 する心得も述べている。
  期せずしてこの心得は、ボクが結婚するときに妻に言った言葉と同じで ある。  そろそろボクも遺言書を書くべき年齢に達した。
  しかし、さしたる財産も目的もないボクにとって、改めて妻や子供達に 言い遺すべき言葉は何もない。
  またすでに成人し、それぞれの家庭を持っている息子らに、今更何を言 っても仕方がなかろう。
  敢えて言うなら、兄弟仲良くしてくれぐらいか。 このことは、父も我 々兄弟によく言っていたが、兄弟姉妹7人もいて、それぞれ相手ができる と、正直なところ実際にはそれもなかなか難しい。