花ざくろ

  「花ざくろ」は地中海東部から北西インド原産の「ざくろ」の園芸品種で、6月頃、枝先にオレンジ色の花を付けるが実はならない。
 「炎の花」ともよばれ、エデンの園の「生命の木」でもある。
 ボクの母が亡くなったとき、父は母の俳句集を作ろうと考えた。
 その句集の名が「花ざくろ」で、その由来は母の句「花ざくろ暁天講座はじまりぬ」からきている。
 ところがその後、父の構想は次第に広がり、結局は両親の人生の総決算ともいうべき600頁を超える大冊になってしまった。
 その内容は、句集花ざくろ、かいの露(大西きわ葬送の辞)、もがり笛(大西一男葬送の辞)、歌集青春の譜(きわ、一男)、芳苑(友人、知人、教え子、親族)、書簡集、草苑集からなり、約170名の方々の両親に対する思い出が収納されている。
 父が亡くなって1年後、父の教え子、知人らの多大な努力によってまとめられ、二人の記念集としてようやく発刊された。
 表紙絵と題字は、両親と親交の厚かった今は亡き民画家・渡辺俊明氏によるものである。

 この中からボクが執筆したものだけを収録した。
  「花ざくろ」の発刊によせて 
 昭和五十八年七月二日午前七時過ぎ、母が胆石によるショック(?)で急逝して、すでに十年が過ぎた。
 今年(平成五年)の正月元且、親しい方々や家族全員を前にして、母の十年祭を六月二十日と決めたのは父自らである。まさにその日、病床にあった父は意識を失い、六月二十六日午前六時五十八分、老衰と心不全のためにこの世を去った。
 夫婦の不思議な縁を感じるのは私だけであろうか。

 父が余生の仕事の一つとして、母の句集を作ろうと思い立ったのは、母が亡くなって間もないことであった。
 『花ざくろ』は、母の句「花ざくろ暁天講座はじまりぬ」(阿波野青畝編『俳句歳時記・植物〈夏〉』保育社刊、収録。本書十八頁所載)から引用した題である。
 『花ざくろ』が、一転して、父母の追悼記念文集として発刊されようとは、当初、誰もが夢にも思わぬことであった。
 しかし、今振り返ってみると、父は初めからこうなることを予期し、またそれを期待していたと思われてならない。皆様からの寄稿がとうに出そろっていたにもかかわらず、今日まで刊行が遅れたのは、父自らの企てに相違ない

 母を語ることは、父を語ることであり、子ども、さらには係わりのあった方々を語ることでもある。真の夫婦は、そうなるのが自然であろう。
 皆様から寄せられた母の思い出が、期せずして、そのまま父の思い出の文集となり得たことは、子どもとして幸いであり、喜びである。

 父の葬儀の挨拶でも申し上げたが、父はまさに”情熱の人”であった。
 短歌、母との恋愛、大学騒動、教育、古美術、民芸、高校野球、小鳥、秋田犬、錦鯉の飼育、へら鮒釣り、庭いじり、石楠花、旅、写真、自治会活動等々、常に何かに情熱を燃やし、凝りに凝り、自分の信ずる所はあくまでも貫き通す人であった。これは素晴らしいことであり、幸せなことであるが、本人にとっては肉体的な苦しみの連続でもあり、傍の人間にとっては迷惑でもあった。
 その最大の被害者が母である。
 もっと上手に生きてくれたなら、二人とももっと長生きできたに相違ない。
 父母は”人の出会い”を大切にする人であった。
 いろいろなご縁で結ばれた方々が、大勢、家を訪ねて下さった。
 これこそ、大西家の最も誇りとするところであり、宝でもあった。
 私も教育者の端くれとして、このことだけは見習いたいと思う

 皆様にどうしてもおわびせねばならぬことが一つある。
 それは、姉や私の再三の忠告にもかかわらず、一部の原稿を父が無断で部分訂正、または加筆したことである。
 父の情熱の成せる業とはいえ、私の最も嫌いとするところである。
 どうか父の最後のわがままとしてお許しいただきたい。

 最後に、本当に長い問、『花ざくろ』の編集、出版に多大なご協力を賜った荒川有史氏(国立音楽大学教授・法政大学後輩)、平松一郎氏(東京創元社社長・城工機械科昭和十六年卒)、西浦宏親氏(日本共産党中央委員・宣伝局長・城工併設中学昭和二十三年卒)、および井上雅子氏(三鷹杉の子幼稚園園長・旅で得た友人)の各位、快く表紙絵をお書き下さった渡辺俊明先生、カットをお願いした内山政義氏(陶芸家・城工電気通信料昭和三十六年卒)、またご寄稿を賜った多くの皆様に、心より感謝とお礼を申し上げます。

        一九九三(平成五)年九月十五日 父の墓前祭にて
 母を思う

 不思議なことに、私の高校時代までの記憶の中で、母の思い出となると、ほとんど鮮明に残っているものはない。父の強烈な個性、小さな家での七人の兄弟姉妹との共同生活、加えて、当時家に出入りされていた大勢の父の教え子の方や、その他の出入りの人たちとの係わりの記憶の中に、どうやら母の思い出が、隠されてしまっているように思える。
 それでも、断片的ではあるか、いくつかの思い出は、いまなお鮮明に残っている。
 

 あれは四歳ぐらいの時であったか、母に連れられて、大阪市内の千林まで行ったことがある。行った先は銀行であった。母の所用の隙に、私は賑やかな町並みの物珍しさから通りへ出、そこここの店をのぞきながら歩いているうちに、迷子になってしまった。どうして交番所に保護されたかはもう憶えていないが、ずいぶん経って母が来てくれた。わっと泣き出した私を、母はしっかりと抱き上げてくた。母の豊かで温かな胸に抱かれた記憶は、今も実感として残っているし、またこの時だけだったようにも思う。

 同じ頃、確か今の香里本通町の商店街の往来で、駄駄をこねたことがあった。何かを欲しかったのだが、それはもう忘れてしまった。母は二三度たしなめたが、なおもむずかる私を置きざりにして、さっさと先へ帰ってしまった。びくともしない母の大きな後ろ姿だけが、妙に目に残っている。

 終戦まぎわの食糧難時代の頃である。母はほとんど毎日のように、夜明け前から買出しに出かけて行った。姉や私たちもよく家事を手伝ったし、一緒に行ったことも幾度かある。木屋、交野、遠くは高槻、それに京都の田辺あたりまで、時に途中で空襲に見舞われたこともある。今考えても、泣きもせず、不平もいわず、母に寄り添ってよく歩いたものだと思う。
 あれは、高槻まで行った時のことである。重たい荷物を抱えて、やっとの思い出で枚方の渡し場に着いた。しかし、めずらしく沢山の食糧を農家でわけてもらえ、母も私たちも心は弾んでした。渡し船は、大勢の買出しの人たちで混み合っていた。ようやく対岸に着いた時、そこには大勢の警察官が待っていた。今から思うと、食糧統制に引っ掛かったのである。枚方警察署の玄関先で母を待つ私たちは、不安で心細かった。ずいぶん経って、軽くなった荷物をしょんぼり抱え、放心の体で出てきた母は、私たちに気付きはっと我に戻った。「待たせたわね」と微笑んでくれたが、目には確かに涙が光っていた。何があったのか、母は一言も言わなかったし、私たちも、聞いてはならぬことだということぐらい、その場の雰囲気からわかった。あの時の母の姿は、今思い出しても哀しい。当時家族は六人、父は応召中だった。

 家計の苦しさは、小学生の私たちにもよくわかっていた。私の運動靴はすぐ擦りきれ、雨水が容赦なくしみこんできたが、買ってくれとは、とうとう言えなかった。
 そんな時でも、学生風の物売りがくると、必ず何か買ってやっていた。別に、それを使うという当てがあったわけでもないのに。

 そんなある日の昼下がり、船員と名乗る二人の男が、「荷物になるから毛布をあげよう」と言ってやってきた。私は、もらったらよいのにと思ったが、母はきっぱりと断った。人を疑う母を見たのは、この記憶の他にない。

 戦後一時、母は行商の真似ごとのようなことをしたことがある。品物は、てんぷら、ごぼう巻、あつやき、はんぺん、ちくわ、かまぼこなどの類だった。当時、香里園ではなかなか手に入りにくい品物が、天満市場では何でも豊富に、安く手に入れることができた。少しでも安くおいしい食べ物を、千供たちに沢山食べさせたいと買出しにいったのが、ことの始まりだったと思う。余分があった時など、近所の方に分けてあげたりしていたのが、知らぬ間にお得意先を増やしてしまったのだ。私もよく手伝わされたが、せいぜい足代にでもなっていればよかったほうだと思う。しばらくして、母はこの仕事をきっぱりと止めた。母が自らそう決めたのか、それとも、それを知った父がたしなめたからなのか、私は知らない。

 母は草や木、また花の名まえを実によく知っていた。またそれだげに母は花が好きだった。庭先の花や野の花を採ってきては、さり気なく活けて、ところを得てそれを飾った。万年青や水仙、しゃがなどの葉ものを生ける技はとりわけ見事だったと思う。なんとも言えない、おおらかで清楚、気品があった。母が浅草遠州流十一代の家元だと知ったのは、私か大人になってからのことである。母はそういうことはいっさい口にしない人だった。
 私が、水仙に袴を付けて生ける技を知っているのは、子供心に、母の生け方を見ていたからである。

 小学校の四、五年生の頃だったかと思う。子供たちが寝静まった夜(子供たちの就寝は九時と決められていた)、低声ではあったが、父と母の口論を耳にしたことがある。母の口吻から、それは激しい怒りに近いものであることは、子供でもわかった。沈黙がつづき、しぼらくしてから母は着物を着替えて家を出ていった。そんなことが引き続いて三、四回はあったと思う。だが、出ていったかと思うと、四、五十分もすると、さりげなく帰って来るのがつねだった。私たち子供のことを考えてだったのだろうか。朝を迎えればふだんの母であり、父だった。この口論はなんだったのか、聞いたこともないし、いまもって事の真相はわからない。だが、我慢強い母が、平静を失うほどのことであったことはまちがいない。父の、こうと思ったら憚らぬ行動、母の女としての赤裸な心情をそれなりに理解できるようになったのは、私がその頃の父母の年齢になった、つい最近のことである。

 日曜、祭日といわず、家には実に様々な人の出入りが絶えなかった。多くは父の教え子の方で、学校ではいわゆる性行不良と評価されている人とか、俊才といわれている人たちだったように思う。その他、教え子の両親、姉の友人、さらには父が深夜の大阪駅で保護し、家に連れ帰って、親から預かることになった、遥か南の島から家出してきた迷える娘、あるいは、何かの曰くがあって、親から頼まれて預かっている生徒、などなど、きわめて個性的な人ばかりが集まっていた。試験や受験の時など、逃げ場のない小さな家で、机に向かいながら、正直なところ為すすべもなく、ただ茫然としていたこともしばしばたった。だが、これらの人々の出入りが、私たち兄弟姉妹の、勉強への意欲や、進学への心がまえ、また、さまざまな人生のよき師表だったことは間違いない。そんな人たちと夜更けまでしゃべっている時など、うつらうつら舟をこぎながら相槌を打っていた母の姿が好きである。

 私が、母だけに打明けて、真摯に相談したことが一度ある。大学院に在籍していた時の出来事で、父の紹介で出合い、その後数年交際を続け、将来を約束していた娘が、懐妊を告白した時である。「一番苦しんでいるのは女性ですよ。男のお前には、この心の重さはわからないでしょう。頼れるのはお前しかないはずよ。お前は二人の命をあずかっているのです。うろたえてどうするものですか」と、諄々とさとされたが、その時の毅然とした母の姿、そして母の言葉は、今でも心底から消えない。私の長男もすでに二十代の成人である。今ここにあえて、父と母のこの秘密を打明けても、わかってくれる分別は身につけていると思う。

 私たちの結婚に対し、両親から心遣いや助言はあったが、特に金銭的援助というものはなかった。それは姉たちもまた同じだった。当時の父の収入では、やってやりたくても出来る状態ではなかったであろう。それでも、両親は借金をして二階を増築し、私たちの住いを用意してくれた。借金の返済として家賃月六千円、食事その他一切別、という母の申入れであった。当時の私の月収は、奨学金、週三回の中学・高校の生物の非常勤講師、それにほとんど毎晩の家庭教師から得た、合わせて三万五千円であった。
 長男は、この家で誕生した。男子の内孫は、両親にとって初のことで、喜んでくれたことは言うまでもない。
 次いで、二番目の子供もこの家で生まれた。二人の子供が出来、私たちの苦労は倍加した。だが母は手を貸すというようなことは一切しなかった。「子育ては両親の手で育てることが第一義。人の手にゆだねるような弱気になったら親として失格ね。親と子は、さまざまなかかわり合いの中で、共に成長してゆくのよ。そこに子育ての本懐があるし、子を思う心情、親を思う心情か双方に育つのよ。」母のこの子育ての信念は、母自身が貫いて来たことだったし、わが子(三男四女)のすべてに母はこの信条を平等に貫いた。

 昭和四十四年の春、母校(大阪府立大学)への私の就任が決まり、私たちは金岡の公団住宅に引っ越した。私の喜びは、ようやく独立できたということよりも、一切のアルバイトから解放され、仕事が思う存分できることあった。しかし一方、母の生涯最大の苦悩は、この頃から始まっていたのである。祖父(父方)の脳軟化症が急速に悪化し、全く分別のつかない廃人になっていったのである。

 数年にわたる母の献身的な介抱の末、祖父は九十一歳の生涯を閉じた。その頃、母の心身の疲労は極限に達していた。それは傍目でもわかった。余りにも悲惨であった。この時ほど、安楽死という行為を、真剣に考えたことはない。私も医師の端くれだからである。

 七人の子供たち全員が独立してからも、母は私たちや孫が訪れることを、心待ちにするというふうは見せなかった。行けば行ったなりに喜んで迎え入れてくれた。大勢の孫たちを引き連れて風呂屋(当時は家に風呂がなかった)へ行き、帰りにジュースを飲ませたりしては喜んでいた。孫娘が大きくなれば、それなりに着物などを作って、自分で着付けてうれしそうだった。お正月には、孫にも、教え子のお子さんたちにも、みんな同額のお年玉を用意し、笑顔をいっぱいにしてふるまっていた。だが、孫の家を訪ねだり、子供たちに遊びに来てくれとか、車でどこそこへ連れていってくれなどというようなことは、一切言わない人だった。

 母の一番の欠点は(長所でもあるのだろうが)、金銭に対して全く図ることがなく、無為そのものだったということである。万事、出たとこ勝負で暮らしの道を立てていたというのが、その実情だったと思う。もっともそうでもしなければ、やっていけなかっただろうし、まともに家計と対応していたら、おそらく狂ってしまっていたに違いない。ところが亡くなってからその逆の一面もあることが次から次とわかってきた。ここが母の、不可解のところなのだが、私には何かわかる気もする。似ているからである。
 去年の暮れ、私の長男名義の十年ものの保険か満期になった、という知らせを某営業所から受けた。私も家内も、寝耳に水であった。むろん、父も知らなかった。母の仕業なのである。また、この他にこの種のものが母の死後数通出て来た。

 私が知っている、母の人生の開花は、亡くなるまでの、ほんの十年足らずではなかったかと思う。教え子のある方からハワイ旅行の招待を受け(昭和三十六年十一月)、それがきっかけとなって、父母の海外旅行が始まった。喧嘩しながらも、父はなんでも知りたい、なんでも見たい行動派。母はのんびりと、楽しみながら、遊びなが、喰べ歩きながら、適当に見たい知りたい散策型。どっちにも軍配は上げたいが、母のこぼす心情はよくわかる。一ヵ月に亙るヨーロッパ旅行(昭和四十八年七月十五日出発)を手始めに、マレーシアに行ったり、シンガポールヘ行ったり、タイヘ行ったりしていたが、その後、母は、父との海外旅行のつき合いは降りたようで、もっぱら国内旅行に出かけていた。「ちょっと行って来るわね」と言っては、三、四人の知人と連れだっては出かけ、本州はもちろんのこと、北海道から沖縄まで、ほとんどくまなく国内を巡ってしまった。旅の内容では父のそれとはちがうかもしれない。だがそのバイタリティたるや、ただ恐れいるばかりである。

 その他、好きな生け花を教えたり、親しい友人とお茶を楽しんだり、「かつらぎ」寝屋川支部句会の句座設営に腐心したり、自宅での香苑句会を主催したり、時には吟行に参加したり、小唄の師匠としてレッスンをとったり、また自分も師匠のもとへ稽古にかよったり、またこの種の公演に出演したり、婦人会の会長をつとめたり、仏教婦人会、好古会の研修に参画したり……ともかく母の晩年は、それなりに充実した多彩、多忙そのものだった。だが、母はそれを楽しんでもいたようだった。
 ある日母曰く、「小唄の師匠なんて、おおよそ女の極道よね、お父さんも気の毒……。アハハハ」おおらかな笑顔と母の笑いが、いまでも聞こえて来る。母は俳句を友として、小唄一筋に自分の生涯をかけていた。

 母は、生涯父の良き助手でもあった。多くの生徒さん、また卒業生の方々がわが家を訪れて下さったのも、父のかげにこの母がいたからの事だったと今にして思う。
 父は何事につけ徹底を期する気性の人である。半ぱなことは絶対ゆるさない。また自分もしない。子供たちも、生徒さんたちも、みんなこれで父にしごかれたのだ。
 「へこたれるな」これが父の信条だった。この父も、つねは結構ロマンチストで情の細かい温かい人なのだが、仕事となるとまさに鬼神となる。人にもきびしいかわりに、自分にもきびしい。仕事に就いたら寝食を忘れて没頭する。徹夜はしばしばなことで、それが連日でもへこたれない。そんな父に、食事を何度も温め直したり、深夜に起きてはお茶を運んだり、夜食をつくったり、時には不平をかこつこともあったが、よく父につくしていた母が懐かしい。

 父は昭和五十一年四月から、地域の自治会長を務めている。住宅街四町に亙る千三百世帯の大きな自治会だし、訪客の接待には気を配る母だったから、当然のことながらその負担はかかって来る。「堂(タカ)ちゃん、お茶の出し入れ、電話の応対だけでも毎日たいへんなのよ」と母はよく言っていた。だが、ここまではまだよかったのである。
 五十八年三月、地域にコミュニティーセンターが建設されることになり、父がその建設委員長の推薦を受けた時点から、母の心身はにわかに過労の度を増していったように私は思う。その仕事を父が受けなかったら、母はもう少し長生きしていてくれたかも知れない。

 この頃、母は遠方に住む旧友、知人のかなりの方々へ「朝七時から九時までが私の時間なのよ。早朝からでご免なさいね」との前置きに始まって、懐かしげに、親しげに、長々と自分の近況について、電話をかけていたようである。[なんだか、お別れのようなお電話でした」との丁重なお手紙を多数の方から頂戴して、私は初めてこの事を知った。父はもちろんこの間、コミュニティーセンターの建設に全力を投入していた。東京へはいうまでもなく、地方都市へも、自費でこの種建造物の見学に出かけて行った。当市、既設のコミュニティーセンターに納得のいかなかった父は、地域の住環境に資する内容の施設の実現を期して懸命だったのである。教え子の方で建設業務に携わっておられる方々の教えを受けたり、助力を仰いだり「これはおれの墓標なんだ」と言って、設計の原案作りに傾倒していた。まさに修羅の如くである。この間の母の苦労はもうここに記すまでもない。しかも母はこのセンターの完成を待たずして突如昇天したのである。

 いま、母の墓標ともなったこのセンターは、殆ど父の原案通りの施設内容で、昭和五十九年四月完成来、多くの市民に活用されている。成田町に所在する「東北コミュニティーセソター」がそれである。
 父はこのセンターの名称を「コミュニティーセンター香里園」(地域の殆どの市民は「香里園」の名で自分の住居を第三者に示している)としたかったのだが、既存のセンターが、市庁舎を中心としてう「西北コミセン」「南コミセン」の名称がつけられ、当所は東北の位置に所在するからとの理由で委員各位の賛意が得られず、これだけが父の意志として通らなかったと聞いている。「市の当局者は名称は自由だと言っているのに、感性の問題だよね」と父は不満のようだが、私に言わしめれば、この名称こそ、母を偲ぶにはふさわしいと思ってる。なぜなら、母の出生地は福島県三春で、東北の人だからである。
 センター竣工の式典は59年4月21日だった。父はこの竣工式を終わると同時にセンターとは一切のかかわりを断った。

 母の死は突然であった。父や姉や親しい友人と共に、木曽路一泊の旅に出て、帰ってからちょうど一週間の、昭和58年7月1日の、夜九時頃、急に体の変調を父に訴え、救急車で入院した。薄れゆく意識のなかで、母は最後まで、父の話し掛ける言葉にだけは応えていた。子供たちには、とうてい近寄り難い夫婦の絆を、私は、ひしひしと感じていた。無意識のなかで、静かに粋な小唄を完璧に唄い終え、開もなく優しい顔の人となった。
 まことに母らしい、大往生であった。

 ここまでに至る長い年月の間、私たち家族は母の病床の姿を一度も目にしたことがない。母はそれほど健康だったのであろうか。それとも、その暇がなく耐えていたのだろうか。いま空しい憶測だけが駆けめぐる。日頃、血圧の高かっか母は、これだけは十分留意していたが、まさか胆石が母の死を招いたとは、母はもちろん、誰も知る由もなかった。死亡診断書は「心不全」。たったのこの三文字で、母はその生涯を閉じた。58年7月2日の早朝のことだった。

 母に似合っているな、と思う仕事がいくつかある。豪華船の船長、オペラ歌手、勝負師、女優、外交官、大臣、そして、格好な料理屋の女将。もっとも、この女将は、あまり儲かりもせず、損をしていても、いつもお客を大切にしていたにちがいない。