昭和40年代前後の狭山池の想い出  
 

 私が初めて狭山池のことを知ったのは大阪府立大学農学部獣医学科2回生の夏(S36:1961)である。当時農芸化学科の学生で同じ弓道部員だったT君が、狭山池に珍しいマミズクラゲ(淡水クラゲ)が多量発生したと新聞に出ていたので獲りに行こうという。取り敢えず網とバケツを持って、中百舌鳥学舎から自転車で狭山池までやって来たのが初めて見た狭山池だった。当時今の310号線はまだ完全に舗装されておらず、真夏の砂ぼこりの凸凹道をひたすら自転車で走ったのを覚えている。

 大きな池の北側は石垣とコンクリートの土手と道路、東側は南海の遊園地、南と西側の池の周辺はアシが生い茂り、南側の方がわずかに水面と岸辺が接近していた。池の西側周辺の細い土手道を南側に周ると、やっと水面を近くに見ることが出来た。池の水はきれいに澄んでおり、のぞくと居るは居るは、わずかに白く半透明で直径2センチ程度の小さな傘の周辺に沢山の細く短い足をもった多数のクラゲが浮遊していた。暑かったので下半身まで水に浸かり、クラゲをすくったのを鮮明に覚えている。こんなクラゲがどうして多量に発生したか判らぬが、現在でも日本各地の池で時折発生しているらしい。

 私が大阪狭山市大野台へ転居してきた昭和46年(1971)頃の「平成の大改修」以前の狭山池は、現在の北側の土手の上が道路になっており、道の両側には桜の大木が植わり、春ともなれば見事な桜のトンネルを楽しむことができた。

土手の北側の中央付近に村の区役所が、その左隣に漁協事務所(?)があり、確か舟木さんという方が組合長(?)をされていたように記憶する。何故舟木さんを知っているかというと、氏は猟もされ、数頭の猟犬の予防注射や病気のことでよく私の勤務する大阪府立大学農学部付属家畜病院へ来院されていたからである。

毎年秋には池の水を落とし池底の掃除と共に魚を網で獲っておられたようだが、その時獲れたての生きた尺を超すヘラブナを沢山病院へ持ってこられ、それを刺身にして学生らと酒盛りをした懐かしい思い出がある。

当時、狭山池は有料の釣り池で、土手には沢山の釣り座が設けられ、年中大勢のヘラブナ釣り師が釣りを楽しんでいた。また貸ボートもあり、冬ともなるとワカサギ釣りのボートで賑わった。私も数回ワカサギ釣りに行ったが、早朝の朝霧の立ち込めた水面にボートを浮かべ、静かにワカサギを釣るのは、実に幽玄であったのを覚えている。

こうした釣りも年々の水質悪化とブラックバスなどの外来魚の増殖により、遂に狭山池の漁業は成り立たなくなり廃業されたと聞く。

平成の大改修で公園化した狭山池に昔の面影は少ないが、土手の桜の木も次第に大きく育ち、池周囲を散歩する市民も年々増え、特に南面の芦原や雑木が増えるに伴い、四季折々に集まる水鳥や野鳥の数が増えつつあることは嬉しいことだ。

願わくば、さらなる池の水質改善を図るために、流入する西除川および三津屋川の水質改善および芦原の育成は重要であり、また両河川流域の住民の理解と協力が必要と思われる。