その日(平成11年8月21日)は雨気づく空模様であったが風もなく、すでに11時と釣りには遅過ぎたが、久々に一人で海に出た。 蒸し暑い富海の夏の海は穏やかで、
通い慣れた宮市子(ミヤイチゴ)の岩礁に向け船を走らせた。この岩礁は富海港から東南約8km
の沖合い、戦時の人間魚雷「回天」基地の桟橋が不気味に残る大津島の西岸から約1.3km
に位置し、 東西に走る鋸状の約100mばかりの細長い岩場である。さらにその南方約5km
の沖合いには野島が、また西方約12kmには防府向島の最南端タズノ鼻が望まれ、その周辺は四季折々にメバル、アジ、ハマチ、チヌ、クロ、ハゲなどの格好の釣り場となっている。
この日は以前に型の良いチヌが数枚釣れた実績のある岩礁の西端部北側約30メートル沖に船を着け、潮の関係からこの日に限ってご丁寧にも3本の錨(通常は2本)を投入し、
船を岩礁と並行させ完璧に固定した。
狙いはチヌ。 背を北に向け南側の岩礁と船の狭い海面を潮に任せて、寄せ餌と共に何度も浮きを流すが全く反応がない。 小一時間も経っただろうか、 背後に遠く雷の音を聞きながらなおしばらく餌を投げ続けた。 雷の音がやや近づいた気配にふと陸の方を振り返ると、 山陽高速道路が走る山並みは、 徳山から防府にかけ真っ黒な雲で覆われ、 時々稲妻が走るのが見られた。 しかしそれとは一線を画し海側の空は明るく、 明かに前線が通過中であることがわかった。 海面は前より幾分波立ってはいたが白波が立つほどではない。 今港に戻るのはかえって前線に近づくことになり危険であると判断し、 このまま釣りを続行することにした。
半時も経っただろうか、少し波が騒がしくなった気配にふと西方の向島をみた。 と、その時、島の上空を覆うっている灰色の雲の平らな底が漏斗状に垂れ下がり、その先端部から灰色の細い帯状の雲が数本蛇のようにくねくねしながら海面に向かって伸びたとみるや、
そのうちの一本が海面まで達し、 他の蛇をも巻き込んでしっかりとした一本の柱が形成された。そしてその周囲に何回か稲妻が走った。
まさに竜巻誕生の瞬間である。 まるでテレビや映画でもみているようにただ唖然として眺めていたが、今その竜巻は現実のものとして、タズノ鼻沖合いの海面を釜首をもたげた蛇のごとくゆっくりと動き出したのである。 当初、すぐに消えてしまうだろうと思ったし、はるか遠くの出来事としてむしろ楽しみながら眺めていた。奴は次第に勢力を得、太さを増し、首は左右にゆっくり振れているがほとんど位置を変えない。
奴が左右に蛇行しながら、かなりのスピードでこちらに向かって近づきつつあることに気付くまでには、もう少し時間がかかった。 全身に戦慄が走った。
錨を上げて逃げる時間的余裕はあるだろうか。 周囲には一隻の船も見当たらない。 今すぐ錨ロープを切って逃げれば、 充分逃げられる。 一瞬いろいろな思いが脳裏を過ぎった。
ロープを切れば1個1万5千円の錨、3個で4万5千円の損か。
すぐに錨を上げようか。
まさか直撃は食らうまい。
もし巻き込まれたらどうなるか。
船は転覆するだろうか。
転覆してもまさか沈没はしないだろう。
まさか船が空中に巻き上げられることはあるまい。
意外に大したことないのでは。
一度竜巻を体験してみたいな。
オレはどうなるか。ひょっとすると死ぬかな。
船にしがみついていても持っていかれるかな。
救命具をつけ海に浮かんでいる方が安全かな。
もし船が沈んでも、岩礁は近くだからあそこへ上がったら助かるな。
奴をもっと近くで見てみたいな。
誰も乗せていなくて良かったな。
一人だったら死んでもあまり迷惑かからんな。
こんな切羽詰まった時に、 なぜすぐ綱を切って逃げなかったのか?
自分の命と4万5千円とどちらが大切か?
誰に聞いてもすぐわかることだが、その時の私には決断しかねた。 それは確率的に考
え、 この広い海でまさか直径約30mの竜巻の直撃を食らうことはあるまいという考えが強かったこと、そしてその勢いの怖さを知らなかったからであろう。
と言うよりは恐怖に対する一種のパニック状態であったのかも知れない。
しかし、予測に反し奴は蛙を狙う蛇のごとく、釜首を左右にゆっくり振りながら確実に近づいてくる。 辺りは不気味に暗くなり、時々稲妻が走った。 大粒の雨が横殴りに頬を打ち、
揺れる船に錨ロープが軋み始めた。
万事休す、もう逃げられない、 と覚悟した時不思議に心は冷静になった。
急いで釣り道具をキャビンに仕舞い外から鍵を閉めた。 私は救命具に身を固め、 ブイのロープの先端を船のフックに固定した。 いざとなればブイを持って海に飛び込むつもりであった。
奴は目前に迫りつつある。 サワサワと渦の底の海面が波立っている。 辺りは意外に静かである。 カメラかビデオがあったら凄い写真が撮れたのに、と悔やまれる。
左右の蛇行幅、 進行方向、 直径から推測して直撃だけは免れたと判断できたのはほんの数百m手前であった。 時速は約30km、 渦の直径約30m、
猛烈な水飛沫と風の壁に中心部は見えない。 渦と海面との間に約1mぐらいの空間部分があり、その海面は三角形状に波立っている。
サワサワサワサワ。 渦に吸い込まれる横殴りの風の直撃を受け船は一瞬大揺れに揺れた。 竜巻は岩礁の南側約100mの海上を岩礁に沿って東に進み、やがて大津島の西海岸に上陸するや、山肌の木々を騒がせ峰に消え去った。
ほんの一瞬と思える出来事であった。そして海は何事もなかったように夏の日差しを受け、けだるくうねっていた。
注:帰宅後、テレビのニュースで昼頃、 阿知須町で発生した竜巻が、 ガソリンスタンドの屋根を飛ばし、 何本かの大木を根こそぎに倒した後、海上に去ったことを知った。
富海の沖は丁度阿知須町の東方に位置し、 時刻および方角より考え、 私の出会った奴と同じ竜巻であると考えられ、 改めて胆を冷やした。
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