ウサギとカメ 2020.4.13 |
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「ウサギとカメ」と言えば、言うまでもなく子供の頃読んだイソップ物語が思い出される。ウサギは走るのが早く、カメが遅いのをバカにして、競争の途中昼寝をしてしまい、その間にカメに追い越されて、ゴールに先に入られ負けてしまうという逸話だ。実際、人間社会においても、これに似た大番狂わせが時々起こることがあり、それに対する戒めのための逸話だろう。
実は、我々夫婦は、色々な場面でウサギとカメを演じてきた。言うまでもなく何時もボクがウサギ(実際ウサギ歳)、家内がカメだ。家内の余りものドンくささに業を煮やしたボクはイライラすると共に、タカをくくってしばらく放置して新聞を読んだり、テレビを見たりしていると、知らぬ間に先を越され、もう仕事が終わっていたということが時々ある。 しょうもない事だが、例えば「豆を剥く」とか、「キンカンを煮る時に皮に穴を開ける」とかいう作業があったとしよう。ボクは手際よく彼女の倍のスピードで仕事をこなす。彼女の丁寧ではあるが、遅い仕事を見て次第にイラつき、アホらしくなって途中で寝てしまったり、新聞を読んだり、テレビをみたり、気が付いた時には、もう仕事が終わってた、というようなことが時々ある。実は彼女は初めからそれが判っているから、何を言われても別に気にも留めず、黙々とマイペースで仕事をこなす。 こういうドンくさい女房だが、一つだけ彼女に完全に負けたなあと思うことがあ 俳句は、ボクの母が老後の趣味の一つとして楽しんでいたが、ボクが大学院生で彼女と交際していた頃、母に誘われ、阿波野青畝先生主幹の俳句結社「かつらぎ」に、しばしば二人で参加していた。ボクはその当時、地元の若者等と「香里園青年文化会」という文化活動をしていたが、そこでも若い近くの先生をお招きし、「香苑句会」という会を結成した。 こうした苦しい、ガムシャラな日々が数年間続き、やっと博士論文を仕上げ、研究室に助手として採用された、アルバイトから解放された時の喜びは、一生忘れられない。今でもアルバイトと聞いただけでぞっとする。 その頃、ボクはもう俳句のことなどはすっかり忘れてしまっていた。そうした中でも家内は、暇を見つけては、何とか細々と俳句を続けていたらしい。 ボクが38歳の時、米国ミネソタ大学獣医学部へ1年間、客員教授として留学の機会を得、一家で渡米した。帰って来た時には、丁度長男は中2、次男は中1となり、子供等からやっと解放された頃であった。ここの頃から家内の俳句活動も徐々に復活していったらしいが、その間の詳しい経緯は知らない。ボクは家庭のことはほったらかして自分の仕事に没頭していた。その頃、私の母は地元で「寝屋川句会」を主宰していたが、若い婦人のための句会も開催しており、家内は常連としてそこに顔を出していたらしい。 ボクが山口へ転勤してからも、家内は地元や広島の同門句会へ足繁く通っていた。また大阪でも少しやっていたらしい社交ダンスも、この頃から「こいね会」という山口では一流のダンス教室で本格的に習い始めた。それがきっかけで、ボクも59歳から社交ダンスを始めたのである。その経緯については、「ダンス、ダンス、ダンス」に書いた。 退職後、大阪に戻ってきてからは、家内はダンスよりもむしろ俳句に力を入れていた。体力の衰えを自覚したからだと思う。 実は大阪に戻って来た時、ボクも俳句を始めようかと考えた時期がある。しかし、せっかく家内が楽しんでいる俳句に、ボクが出しゃばるのは正直気が引けた。家内のせっかくの楽しみを奪いかねないからだ。同じ趣味は社交ダンスだけで良い。これは正直なボクの気持ちであるし、俳句をしないで良かったと思う。やっておれば間違いなく喧嘩になっている。 家内を見ていると、俳句も大変だ。1日10句作れとか、いろいろな注文が入るらしい。句作に行きづまった時など、家内は不機嫌となり、ボクに助けを求めてくることさえある。時にはボクの言った一語から、あるいはFacebookから、題材を「盗んで」、ちゃっかり自分の俳句にしている。黙っていてもこれだから、もしボクが俳句をしていたら、大喧嘩になっていたことだろう。実際、アイデア、句材、言葉の「盗み合い」は、俳句仲間同士では日常茶飯事に行われており、時には喧嘩になることさえあるらしい。一句を作るために、それほど彼らは「題材」に苦しんでいるのだ。同じ趣味は良いこともあれば、真剣だと時には喧嘩になることさえある。 「ウサギとカメ」ではないが、物事には「負けるが勝ち」、という言葉もあるのだが・・・。 |
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