山口の想い出 
                                                 2021年5月30日
 
   私が山口から大阪に戻ってきて、はや15年余りが過ぎ去った。山口はもう遠い過去となり、当時の想い出もかなり薄らいでしまったが、忘れぬうちに、その中の心に残った幾つかを書き留めておこうと思う。

 私が山口に赴任したのは2005年3月で、退職後大阪に帰ってくるまでの約10年間を過ごしたところである。

 山口では先ず住む家を探さねばならなかった。 当時は退職後、山口で骨を埋める積りだったし、外飼いの五郎という柴犬とユキという雑種犬がいたので、どうしても庭のある家が必要だった。 幸い大学から北に約4km離れた吉敷に、大家の離れで手ごろな新築の一軒家があったので、少し狭かったが取り敢えずそこに入居した。

 赴任当初は、兎も角仕事に慣れるまで心の余裕もなく、もっと大学に近くて適当な住居がないか探していた。 ほどなく職場まで歩いて約15分ぐらいで行ける黒川という住宅地に、少々古いが100坪ぐらいの土地付き、広い二階屋と納屋、2台駐車場付きの家が見つかった。大阪ではとても買えない大きな土地付きの家が、大阪の狭い自宅を貸した家賃で賄えるほどの月賦で入手できた。 一階が10畳ぐらいのキッチン兼居間、 6畳2間、 3.5畳1間、 広い浴室と便所、二階は6畳ほどの洋間寝室、8畳の間。 即決してそこへ移動した。

 仕事にもなれ、気分的に余裕が出てくると、休みともなれば近郊をドライブし、名所旧跡を訪ねる機会も増えてきた。家内は本当は下関や広島など都市や、近郊のデパートや繁華街に行きたかったらしいが・・。

 市内は基より、県内には萩焼や篠焼等の窯元が点在する。市内の湯田温泉を始め、県内には多くの有名な温泉が湧き出している。 南は瀬戸内海、北は日本海に面し、大河がなくアユ、アマゴの川釣りファンには少し物足らないが、海釣りファンにはたまらぬ浜や岩場が多数あった。ボクも良く釣りに行った。

   大阪と山口の生活の中で一番驚いたのは、人々の公務員に対する見方だと思う。 大阪で「公務員」と言うと、中産階級の代表と見られるのが極普通だと思う。ところが山口では金持ち階級と見られるのだ。ボクは職を聞かれ、公務員だと言ったら、「へえ・・お金持ちですねえ」と何度か言われ驚いた。都会と地方で、公務員という職の見方にこんなに差があることを初めて知った。

 ボクの講座には中国、フィリピン、タイ等の東南アジアからの大学院留学生や国際研修生が多く、多い時には4人ほど居たが、 休みの日には社会見学もさせねばならず、彼らを連れて県内各地の観光地巡りや、 遠くは別府や阿蘇山へも連れて行った。彼らが一番驚いたのは、日本国中、どこまで行っても、どんな田舎へいっても舗装道路が続くこと、公衆便所が清潔できれいな事だった。

  山口滞在中、大阪をはじめ、全国各地から大勢の友人、小・中・高校・大学時代の同窓生らが、個人的に、また同窓会として大勢来山してくれた。結局、何時もボクが段取り、案内役を仰せつかることになるのだが、今となっては楽しい思いとなった。

   家内は山口へ移るや否や、大阪で長年やっていた俳句と社交ダンスを再開した。ダンスは当時県下で一番と言われたクラブへ入り、俳句は大阪でやっていた「かつらぎ句会」の「山口支部」へ所属した。それらの会で友達ができ、毎日結構忙しかった。実は彼女は大阪に居た頃から「ダンスをしろ」とボクに喧しく言っていたが、それまで「そんなものは男のすべきことではない」と無視してきた。ところが山口で家内がダンス仲間と仲良くなり、一緒にやろうと喧しく言う。皆さん夫婦でやっておられ、遊びがてら連れ立って、九州、広島などへ試合に行かれるらしい。自分も一緒に行きたいためだと後で分かった。

水曜日の夕方8時から2時間、 周1回の練習だが、慣れないダンスは苦労が多かっ
た。習って間もなく、早速D級で試合に出るよう先生から指示があった。それには専用のダンス用燕尾服が要るらしい。ボクは大きいから出来合いでは無理だと言う。  先生が「東京から一流のダンス専用のテイラーを山口に呼ぶから作れ」と言われ、 仕方なく作ることにした。すると後日呼び出しがあり、何と市内の一流旅館「松田屋」で寸法を取るという。テイラーはテレビで見た、「踊らせながら寸法を取る」いう有名な人だった。変な話だが、燕尾服その他一式で何と60数万円。ボクが今までに購入した衣服中で断トツに高かったが、 これは今でも身体にピッタリ合い、 ダンスをはじめ、ボクの退官式のパーティー、その他の祝いの席でも何度か着た。 レンターで借りても1回3万円以上はするから、それから考えると安いものだ。

 ダンスを始めて、地元の人達との交流が俄然広がった。仲間のお宅にもよく夫婦で招かれ、毎年5,6組の夫婦で一泊旅行をした。これは僕等が大阪に帰ってから後も数年続き、合計11数回の珍道中をした。

 当時、学部や学科教官の懇親会が年に一度開かれていたが、 それは何時も決まって山口市内で最も有名な歴史的な料理旅館「菜香亭」で開かれた。当時はまだ明治10年の創業当時の古い建物で、井上 馨や佐藤栄作などの多くの著名人の扁額やゆかりの品が展示されていた。当時の女亭主は確か「おごう」さんという、本物の山口弁を話す小柄な老女だった。 

今は亡き家内の姉夫婦が山口に遊びに来た時、すでに「菜香亭」は移築のため店を閉めていたが、おごうさんの計らいで、由緒ある2階の座敷を使わせていただき、夕食をしたことがある。その時おごうさんは、ずっと付きっきりで給仕しながら昔の話をして下さった。 「菜香亭」が解体され、 現在の地へ移築されたのは、 それからしばらくしてからであった。

  そうした懇親会の後の二次会で、同僚に連れて行ってもらったのが、湯田温泉街の片隅にあった小料理屋「蕨」だった。ママさん一人で切り盛りしていたが、ちょつとした気の利いた山口の「一品」を出してくれた。 ママ自身が大の酒好きで、つき出しの一品は何時も最高に美味かった。なかでも冬の蒸し「ウチワエビ」の味は今でも忘れられない。

  その後ママさんとは家内共々大変懇意となり、足繁く通うようになった。ここに来る常連さんは結構山口の名士が多く、一流旅館の松田屋の板長、今は有名なNHK女性アナ・小野文恵さんともこの店で初めてお会いした。 この店には、社会見学のため留学生や学生らも時々連れて行った。松田屋の板長が、新年の旅館の「新年餅つき大会」に彼らを呼んでくれたのも、そんなご縁からだった。

 その後、折からの不況時代で「蕨」は次第に経営困難に陥り、僕等フアンも出来るだけの応援はしたが、復帰困難で次第に足が遠のき、山口を離れてからの経緯は詳しく知らない。ボクが帰阪して数年後に、ママさんは肝臓ガンで亡くなった、と風の便りで知った。お金も身寄りもなく、惨めな最後だったらしい。一度家内と山口へ行った時、方々訪ね歩き、市内の寺の共同墓地に納骨されたのを知り、彼女が大好きだった「上善如水」の一合瓶を持って弔いに行った。

  ボクの退官パーティーは、市内のホテルでダンスパーティーを開いた。こんな退官記念パーティーは、前代未聞で、山口、いや全国でも初めての試みではないかと思われる。ダンス仲間が大勢応援にきてくれ、来場者と一緒に踊ってくれた。最初は僕等夫婦がデモストレーションをし、そのあとは賑やかなダンスパーティーとなった。

  こういうと、何だか遊んでばかりいたように思われるが、ボクの退職と同時に、研究室から博士号を取得した院生が4人も出た。またボクの10年間の山口時代に5人の博士が誕生したが、これは恐らく山大獣医学科始まって以来の快挙だと自負している。ボクが懸命に指導したのではなく、研究費の心配だけでして、後は彼らの努力に任せたのだから余計凄い。

  実は山口へ行った時、初めは山口に骨を埋める覚悟だった。その積りで家も購入した。 ところが退職して数カ月もしない頃、 何かの折に「大阪へ帰ろうか?」言った
ら、「はい、帰りましょう」と、待ってましたとばかりに家内が賛成したのには正直
驚いた。 山口に大勢の友人もでき、結構楽しくやっているとばかり思っていた。ボク自身はダンス仲間の他は友人も少なく少し淋しいが、豊かな自然が身近にあるから、退屈はしないと思っていた。

 それで、「ボクは山口の家の始末(売却)や大阪の家(人に貸していた)の始末や新装改築、引越等の手配は一切しないよ」と言ったら、瞬く間に自分でそれらをやってしまい、これには驚くと共に、何の文句も言えなかった。在山中は黙ってはいたが、よほど大阪へ帰りたかったのだろう。 家内もボクも、生粋の大阪生まれ、大阪育ちだからその気持ちは良く分かる。決して山口が嫌いなのではない。しかし大阪と一番違う所は、何とも言えぬ山口の「閉塞感」だ。 町も小さく大きなデパートもなく、品数も少ない(今は変わったかも知れない)し、町の要らぬうわさも色々聞こえてくる。それに小・中?高の親しい友人がいない。この感じ・気持ちは、恐らく地元の人にはなかなか解ってもらえないと思う。

かくして、ボクらの山口時代は幕を閉じた。


              稿を終わるにあたり、山口で色々とお世話になった方々に、
                                     心よりお礼申し上げます。