みしな会誕生とその経緯
  私たちが卒業した京都学芸大学附属中学校は、幼稚園からの一環教育で、小学校・中学校からの補欠入学者、またその間の退学者による途中補欠入学者等々を含め、1942年(S17)3月、2クラス計94名
が卒業した。  
  卒業後、大半は地元校区の高校や私学高校へ進学したが、京都を離れ、大阪、東京はじめ地方の高校へ進んだ者もいた。 
 その後、恩師の病気見舞や祝賀会等で何度か京都で集まったり、 個人的な友との交流はあったが、4,50代の働き盛りに大勢で集まった記憶はなく、同窓会として集まり出したのは、もう60歳の定年退職間近かになってからだった。
 確か1999年秋(H11)、岡田さん、中谷くんが幹事で開催された富士山麓を巡るバスツアーが事の始まりだったと記憶している。 翌H12年、ボクが山口大学奉職中に、有志約30名がホタル狩りを兼ね山口まで来てくれ、家内と一緒に萩、津和野を案内した。
 それ以後、毎年のように各地で1泊旅行を続けてきたが、この会に相応しい愛称を決めようとい機運が次第に高まり、2009年(H21)石川さんとボクが幹事で、伏見の清和荘で開催した総会でそれを計ったところ、参加者56名中28名からの応募があり(あらかじめ予告)、投票の結果、植野良夫君案の「みしな会」が賛成多数で決まった。
 「みしな」とは京都学芸大学付属桃山小学校
34期卒、同中学校7期卒を表しており、語呂も良く上品な響きで親しみやすく、「美級会」という漢字名にも通じるという加藤富貴子さんの提案もあり、全員
の賛同が得られた。現在「みしな会」はすっかり我々の心に溶け込んでいる。
「みしな会」の一番の特色は、卒業者はもちろんのこと、中途退学者等も含んでいることだろう。これは他校の同窓会ではあり得ないことで、それだけ我々仲間が親密であったという証拠でもある。  

   後日、小川孝子さんが、自らが織った平織りの生地に、「すくい編み」の技法で名前を記した会旗
(30x40cm)を作って下さり、以後会で愛用させていただいている(現在中坊君保管)。
 その後、みしな会は毎年のように1泊旅行や新年会、季節のハイキング、観梅会、会食、時には有志による海外旅行等々を重ね、共に人生最高の喜びを享受して来たが、一方黄泉の世界へ旅立つ者も増えてきたのも事実である。加えて、2020年からのコロナ騒動により活動が鈍っているが、早く平時に戻りたいものだ。      
                                       2022.4.1 更新