猪名川ウォーク
 猪名川に沿って、弥生時代の遺跡や空港の離着陸風景などを見て歩く
日  時:4月28日(日)快晴
集合場所:阪急宝塚線「池田」駅改札口 10時集合
行  程:阪急宝塚線「池田」駅 →[呉服
(くれは)神社」→「下河原中橋」→「神津大橋」→
    「田能
(たのう)資料館」(遺跡)→「農業公園」→「新南園橋」‥バス‥阪急神戸線「園田」駅
     約12キロ、約4時間程度 他に鑑賞時間 
参 加 者:18名(敬称略 アイウエオ順)
     女性:赤松、荒川、斉藤、丸谷、丸野、森、吉澤
     男性:乾、大谷、大西、谷川、刀禰、堀内、森本、安川、山本(智)、吉川、安場
反 省 会:十三「龍鳳」
 先ず呉服神社へ(10:10〜20) 
安場氏より境内で行程の説明   先ず参拝
境内掲載の呉服神社ご縁起から:
 「大阪府呉服里池田市にかしこくも鎮座まします。日本最初『繊維』の祖神・呉服大神の御由緒を左に申述べます。
 人皇第十五代応神天皇の御代に、猪名津彦命(阿知使主)を中国の呉の国に遣わし機織裁縫の工匠をお需めになりました。その時久礼波・久礼志の二人を案内役として呉の国に赴き呉王に乞うて呉服(くれはとり)・ 綾織(あやはとり)・ 兄媛(えひめ)・ 弟媛(おとひめ)の四人を伴い渡来する事となりました。帰路九州の筑紫潟に着きましたが兄媛・弟媛は胸形明神の御望みによりこの地にお留りになり他の媛は摂津の国武庫の浦にお着きになりましたので猪名の港(今の唐船ケ渕)に機殿を建て呉服媛をお迎えいたしました。呉服の神女は昼夜怠りなく布帛を織り少しも倦み給う事がなかったと申します。  この時より、機織裁縫染色の技術が我国に伝わり、男女寒暑の服装の別が定まりました。尚、四季には上妙の衣服を天子に献じ、下は万民に施されました。        
 仁徳天皇の七十六(385)年九月十八日、呉服の大神は御歳百三十九才という人生に倍する御長寿を以て、お隠れになり、その御遺体は今にその跡を残す梅室、御形見なる三面の御神鏡は姫室にお納め申し上げました。その翌年、仁徳天皇が勅令を以て御神祠をお建てになりました。この大神が糸を様々にお染め分けになった所を染殿井と称し、その糸を掛け晒しになりました数本の老松を衣懸松と名付けその跡は今も残って居ます。
  大神の御託宣に『我は衣服の神となり人をして寒暑の憂なく、養蚕機織絹布裁縫の道を守護し、且つ船路遥かにこの日本に帰化せし故海上の難をも無からしめん』とあります。代々の帝、殊にご崇敬篤く、円融天皇の御代には鎮守府将軍源満仲公が社祠を修復、下って後陽成天皇の御宇には豊臣秀頼公が片桐且元を奉行に命て再建の事があり、文政二年には有栖川宮殿下の御勅祈願所となりました。 因みに呉服大明神の御名は後醍醐天皇より賜りました。御宸翰より起こり、又これにより我国にて絹布の類をすべて『呉服』と称することになりました。 省みますに五穀を作るすべを授け万民に飢餓の憂いの無い事は天照大神の御神徳であると等しく、繊維裁縫の道を教えて寒暑の憂いのなきはこの大神の御遺徳に他ならずと信じます。この故を以って衣服の業に従い、並びにその産物を商うものはおしなべてその祖神たる呉服大神を崇敬すべき事は論を俟たぬ事であり、古来より健康長寿家業繁栄文化経済手芸上達の神徳があるといわれています。
猪名川河川敷へ( 10:28)
 皆んなで一枚(10:31)
 水辺の景色(10:48) 橋の下の日陰で一服(11:06) 
 川下に向けひたすら歩く(11:16) (11:24) 
軍行橋(11:35)  伊丹空港(11:43) 
フロント・オアシス(11:44)  園内の日陰で昼食休憩(11:46) 
 飛行機の離陸を楽しむ(12:41〜43) 
 神津大橋へ向かう  田能遺跡(13:52)
田能遺跡

 昭和40年9月、尼崎市田能字中ノ坪(現在の田能六丁目)の尼崎・伊丹・西宮三市による工業用水道園田配水場建設工事現場から大量の弥生式土器が発見され、10月より約1年間の発掘調査が行われました。
 この調査で、大量の土器や石器のほか、碧玉製管玉、白銅製釧、銅剣鋳型(3点は県指定文化財)など貴重な遺物をはじめ、住居跡や溝などの遺構が発掘されました。なかでも、木棺墓や壷棺墓等の墓の発見は、当時まだ不明だった近畿地方における墓の形態や埋葬状況を明らかにし、弥生時代の身分社会などその時代のくらしや文化を知る発端となりました。
 これらの出土遺物から、田能遺跡が弥生時代のほぼ全期間に及ぶ大集落跡であることがわかりました。 しかし、この重要な遺跡は調査終了後には配木場建設によって破壊される予定となっていました。
 これに対し、市民の間では遺跡の重要性を唱え、破壊から守り永久保存を訴える声が高まり、やがてそれは全国的な保存運動へと拡っでいき、現在の田能遺跡の保存へとつながりました。
 遺跡は約3mの盛土をして保護し、史跡公園として整備しました。そこに、出土遺物を保管し展示する収蔵・展示棟を建て、屋外には復元住居や高床式倉庫等をつくり、昭和45年7月25日に田能資料館として開館しました。
 昭和44年6月30日には国の史跡に指定されています。

サプライズ!・・・「田能遺跡と北野高校との係わり」
 田能資料館では、竹原さんというスタッフの方から、次の通り伺いました。
 「田能遺跡が、昭和41年に発見されたとき、北野高校の村川 行弘先生が発掘に尽力されました。
   先生は、昭和41年3月6日に設置された田能遺跡調査委員会の「調査部長」に就任され、発掘調査の責任者として活躍されました。(昭和41年3月6日付産経新聞)
  資料としては、「田能遺跡発掘調査報告書」609ページに、北野高校の生徒が、(他の学校生徒と一緒に)発掘調査に協力したことが、記載されています。
(安場氏から記事提供) 
 
みなさん、こんな事ご存知でしたか?
 
資料館前で一服(14:24) 
農業公園散策(14:42〜15:05)
ハナミズキの街路樹が美しい農業公園正門前の道  バス停へ 
番外:GRAND FRONT OSAKA 散策
 ウォークの帰り、大阪駅裏のGRAND FRONT OSAKAを見てきた。店でショッピングを楽しんだり、テラスでワインやコーヒを楽しんでいるのはほとんど女性で、男性はただ見て通り過ごすだけ。ただただ女性パワーに圧倒され帰ってきた。