第2回 浅香山から和泉府中
2010年11月26日 約24Km 6時間40分 |
9時、境王子跡を目指して南海高野線浅香山駅を出発。堺刑務所の手前の信号を右に曲がった奥に王子跡があり(1)、周辺は閑静な住宅街だ(2)。 |
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(2)の通りの突き辺りが方違神社である(3)。方違いさんは反正天皇陵(6)の北側に位置し、大学時代の友人、田中龍太郎君の実家と近い。この辺りは彼と遊んだ懐かしい所だ。 |
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この辺の地理には明るい積りでいたが、これが意外に頼りなく、方違神社のくろがねもち(5)、凱旋門風のレンガ造りの旧天王貯水池(7)、行基が聖武天王の命で建てた向和泉寺の閼伽(あか)井*(8、9)等を改めて認識した。
*仏に捧げる水を汲む井戸 |
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閼伽井の水は他に境王子、方違等の祭礼用の水にも使われたそうだ。 |
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閼伽井のすぐ先は日本最古の官道である竹内街道で(10)、堺から奈良へ、多くの物品や人々がこの道を通って行った。
これよりやや堺寄りで西高野街道が分岐する。
外環状線を高架で渡たればすぐ仁徳天皇御陵(11)の西側に出る。 |
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御陵の堀は学生当時よく魚釣をした懐かしい場所である。 堀の傍にあった我が母校大阪府立大学旧農学部獣医学科跡を通るが、 今はその面影もほとんど残っていない。
これより御陵通りを西にとり南宗寺(12)を堀沿いに見て山之口橋(13)に向かう。 山之内橋から再び熊野(小栗*)街道に戻り、石津神社に向かう(14)。
*熊野街道は江戸時代から別名小栗街道とも呼ばれていた。これは浄瑠璃や説経節で小栗判官と照手姫の話でこの街道が有名になったからである。
第二阪和国道をくぐり、地蔵が祀ってある角を左に入り(15)、再び高速と交わる左側に石津神社がある(16)。 |
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境内は国道の喧騒が消え、楠の大木が茂る閑静な佇まいであった(17,18)。 |
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与謝野晶子の歌が石碑に刻まれていたが(19)、そこで歌われている石津川は現在見る影もなかった(20)。石津川にかかる戎橋を渡り、一路大鳥大社へ南下する。 |
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ここで道に迷いJR津久野駅へ至る。一旦R30に戻りJRのガード手前を右折して大鳥神社の裏門(21)より境内に入る。
大鳥神社はさすがに大社で境内も広く際立っていた(22)。
これまで街道沿いの大きな神社仏閣(例えば四天王寺、住吉大社)へは裏口から入ることが多いのは何故だろう、などと余計なことを考えながら正門(23)から鳳商店街(24)へ向かう。
鳳商店街を通り抜けR30を進むところをR36に直進してしまい、そのため堺泉北高速道路の鶴田池まで行ってしまった。高速に沿った道を西に約2km歩き、再び街道に戻るのに非常な時間的、体力的ロスをした。またそのため等乃伎神社は割愛した。 |
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街道沿いには旧家が残っておりちょっと良い雰囲気だ。中央寺(26)を過ぎ一気に南下して信太山に至る。 |
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少し寄り道をして、信太の森の鏡池(27),聖神神社(28)に立ち寄り、神社で遅い昼食をする。ところがこの神社の境内では飲食は認めておらず、係員から文句を言われた。 |
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再び街道に戻り、細い路地を少し登った小さな公園が篠田王子跡だ(29)。地元の人に聞かねば分かりにくい所にある。 |
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次いですぐ近くの八坂神社を参拝した(31)。その入り口には高礼場跡が保管されていた(30)。
街道をさらに南下すると「小栗判官の笠かけ松」・「照手姫の腰掛け石」が現れる(32)。 |
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また沿線近くの公園には、灯台として使われた燈籠(33)が残されていた。
すぐ近くの道端には、平松王子跡の碑だけが立っていた(34)。 |
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この辺りから泉井上神社にかけての小栗街道沿いには旧家が残っており(35,36)、古道の雰囲気も少し残っていた。また小栗街道の道標も立っていた(37)。 |
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さらに進むと、今日最後の目的地である泉井上神社の裏門(38)に至る。ここも裏門から境内を抜け(39)、表門(40)より出て、16時前にJR和泉府中駅に到着した。
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感想:
今回のルートは意外に道がわかりにくく、境王子跡への道、また鳳商店街を抜けてから等乃木神社への道を大きく迷ってしまい、時間および体力的に大きなロスであった。
原因は自分では分かっていると過信したこと、また案内地図の目印となる店等が無くなっていたこと、さらに交通量の多い道を避けたことによる。社会の変化は激しく、今後注意する必要がある。
聖神社で昼食を摂っていてた時に文句を言われ驚いた。なるほど「境内飲食禁止」の札が立っていたが、人が全く居ない広い境内で、一人の旅人が休憩がてら昼食をしているからと、わざわざ社務所から出てくるとは、少し了見が狭すぎるのではないか?そもそも神社仏閣は旅人の休憩所となって然るべきではないか。そんな心の狭い神主のいる神社に人が集まるはずがない。境内には人影がほとんどなかった。
くたびれた割には、全体的に面白い道ではなかった。 |