第3回 和泉府中から岸和田
2010年12月10日  約21km 約6時間 

 和泉府中9:00出発。
 再度泉井上神社を抜け街道へ出て南へ下ると、すぐに井ノ口王子跡だ。現在でも近所の人たちが毎日掃除や散水、お花を活けており、温かな感じで生活のにおいが感じられる小さな社があった(1,2)。
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 松尾川で近代的な小栗橋(3)を渡り畑のつづく街道から道を東へそれ集落を抜けると久米田池北西畔の竜臥山 久米田寺へ着く(4−6)。




 久米田寺は奈良時代行基が建てた49院の一つで、行基が開設した久米田池を維持管理するために建てられた。
境内も広く、現在塔頭として多聞院・五大院・花厳院・阿弥陀院・明王院の五院がある。

 4:山門
 5:金堂
 6:多宝堂
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 久米田池は冬の池さらいで水はなかったが、ため池としては大阪府最大の灌漑池だ(7,9)。 聖武天皇が行基に命じ725−738年まで14年の歳月をかけて竣工したとう。
冬には多くの渡り鳥が飛来する。

 
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 久米田寺の西側の丘陵地には久米田古墳群があり、現在公園となっている(9-12)。
過去には10数基の古墳があったと考えられるが現在8基が確認されている。
   
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 古墳公園から街道に戻ったところに後鳥羽上皇も立ち寄られたという積川神社の鳥居が建つ(13)。
 扁額(14)の「正一位積川大明神」の八字は、そのとき扁額の拙い字をご覧になった後鳥羽上皇が書かれたいう。
 池田王子跡は国鉄より海側にあたり、何もなさそうなので割愛した。
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 街道は現在のR30であり、交通量が多く快適な道ではない。 途中、和泉式部が顔を洗って恋心を募らせたという「恋の淵」(15)、「恋ざめの淵」(16)等を見学したが、道標がなく場所が非常にわかりづらい。 また周囲の環境や水も汚く、それこそ「恋ざめ」のする思いで立ち去った。
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 R30から離れ旧街道を道しるべ地蔵に迎えられ(17)南下する。

 麻生側王子跡は現在工場が建ち何の痕跡も残されていない。

 再びR30から分かれて古道に入ると半田一里塚が残っていた(18)。昔は小栗街道沿いには、1里毎にこうした塚があったそうだ。   

 国道から離れると車も少なくほっとっする。
 街道らしい雰囲気が微かにのこる道(19,24)を、多くの地蔵尊や牛神(20−23,25,26)に迎えられ、やっと「恋ざめ」の心が和んできた。

 この辺りの街道筋には本当に地蔵や牛神さまが多く点在し、何かしらほっとした気分になる。どこにもお花が活けてあり、地域の住民から愛されているのを感じる。 

   
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 貝塚中央病院から右に折れると樹木が茂る気持ちのよい道となる。
 近木(こぎ)川を渡ると右手に竹の茂った丘が見えてくる。この丘が積善寺城跡で(27)、1558年根来衆が岸和田の三好氏と戦った際に、その砦として築かれた所だ。

  これより長谷川の坂(28,29)となり、今日の一番の見どころだ。
 坂を上り詰めた右側の旧家が、「疳医者」として有名な長谷川屋敷であり(29,30)、屋敷の向かい角に「子安地蔵」ともいわれる道標がある(31)。   
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  さらに南下し和泉橋本で国鉄を西によぎり南近義神社(みなみこぎ)へ向かう。 

途中丸山古墳に立ち寄ったが、家と家の間の路地先に立て看板があっただけで観る価値は少ない(32)。

 
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 南近義神社(33)で昼食。
この神社は吉野の丹生神社の分社で、主神の弥都波能売神(みつはのめがみ)の他、三十六の神を祀っている。
 熊野九十九王子のうち鞍持・近木両王子も合祀されている。

 これより白鳳時代の開創という吉祥園寺(34)を通り、鶴原王子跡があったという貝田会館を過ぎて,佐野王子跡(35,36)に至る。この王子は小さな公園となり奥に碑が建っていた。
 これより南海泉佐野駅に至り帰路に就く。
  
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感想:
 
その名前から期待していた「恋の淵」、「恋ざめの淵」にはがっかりした。周囲は間近まですっかり宅地開発され、史跡が台無しだ。特に史跡の保存は周囲の環境も合わせて考える必要があると痛感した。さらに道標がなく周囲の環境整備も必要である。市により史跡の保存や説明板、道標等の宣伝活動に対する取り組み方が非常に異なるように思われた。
 久米田寺周辺および長谷川の坂付近は、
今日のハイライトにふさわしい風情が残っていた。