第4回 日根野から山中渓 
 2010年12月25日 約17km  約6時間

 JR日根野駅を9時過ぎに出発。一路西にとりR64と関空自動車道が交わる交差点から紀州街道に入る。
 蟻通神社を東に拝し樫井、安松の古い街並み、日根野神社跡などをみながら南下する(1,2)。  
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 市立長岡中学校の手前に安松八丁畷の石地蔵(3)が祀られている。この石地蔵の言われは不明だが正平18年(1363年)の年号が刻まれているという。
 さらに進むと、大阪夏の陣で散った団右衛門の墓(4)がある。
 この付近には樫井王子の跡があったらしいが現在はない。 
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 樫井にも旧家が残り何となく街道風情が漂う(6)。江戸時代樫井の庄屋を勤めた奥家住宅が残っており(5)、現在も家人が住まわれている。


 
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 街道から少しそれ、日枝神社へ向かう(7)。境内には牛神が祀られていた(8)。泉州には牛神が多く祀られているが、昔は農耕が盛んであったのだろう。

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 樫井は大阪夏の陣の合戦場であり、樫井川10,11)を渡る手前にそれを語る立派な碑が建てられていた(9)。
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 樫井川を渡ってしばらく行くと、右手の丘に海会寺跡が公園となって残されている(12)。海会寺は1350年前に建てられ、法隆寺規模の立派な寺だったらしい。 
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 その跡地の一部に一岡神社が祀られており(13,14)、そこに厩戸(うまやど)王子も合祀されている。
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 海会寺跡の裏手のゴルフ練習場の角に厩戸王子跡がある(15)。 
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元宿場町の信達(しんだち)に入ると古い家並が街道筋を偲ばせる(16-20)。また本陣も残されていた17,18)。


   
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信達の東の丘の上に建つ長慶寺に立ち寄る(21-25)。慶長年間に建てられたのでその名が付いたらしい。
 正面の石段(21)を登ると山門があり(22)、小高い丘の上には広く立派な本堂等の建物があり(23)、眺めが良く、東は和泉山脈と中山渓辺り(24)、西は大阪湾を望む気持ちのよい景色が広がっていた(25)。 
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 信達の宿を楽しみながら南下し(26)、往生院にて昼食(27,28)とする。この寺は白鳳八年、天武天皇の勅令で道昭が創立したという由緒ある寺院だ。

 
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 これより林昌寺に向かう。案内図では林昌寺への分かれ道に道標(29)、その向かいに信達一ノ瀬王子跡の記載があるが、後者を明記する碑はなく、それらしい場所をコンクリー塀で囲った空き地があるのみであった。このため王子跡を求めて道標を右に直進してしまい、低い峠を越えてから間違いに気付き、再度道標まで戻る羽目になった。

 道標より左手の道を進みJRを横切って山道をゆくと(30)、突き当たりの山裾が林昌寺だ(31-33)。
 手入れの行き届いた皐月の庭園があり(33)、春には花見客で賑わうらしい。











 ここからの信達岡中辺りの遠望はなかなか風情があった(34)。   
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  信達岡中の道は昔ながらの狭い道で(35,36)で、街道筋もよくその面影を残していた(37)。
 






 東に阪和自動車道、右をJRに挟まれた街道をしばらく進むと、突然道端に大きな鳥居が現れる。
 これは波太神社遥拝鳥居(38)で、現在は参道もなく、JR和泉鳥取駅のすぐ東の路傍に建つ奇妙な鳥居だが、この辺りが長岡王子跡でもある。現在は何も残っていない。 
 
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 これからいよいよ山中渓となる。
 山中橋手前の川沿いの細い小道を上流(左手)に向かうのが旧街道だ(39,40)。
 人の気配は全くなく道は荒れており、一人で歩いていると少し気味が悪いほどだ。 この先には道中最も難所と言われた琵琶ケ岸懸がある。
 途中看板があり(41)、現在この道を「平安の小径」と言い、昔のままの面影を今に残しているという。

 琵琶ケ岸懸は人一人がやっと通れるぐらいの道幅で崖が崩れており(42)、落ちれば川まで直行で確かに危険である(43)。そのためロープが張られていた。
 昔、琵琶法師が熊野詣の途中、琵琶を背にこの谷まで来た時、一陣の突風に杖をとられ、山中川に転落して亡くなった。その後川を流れる水音が「コロン、コロン」と琵琶を奏でるように聞こえたという。

 難所を過ぎるとすぐに新興住宅地となるが、その中にある公園が地蔵堂王子跡である(44)   
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  これを過ぎるといよいよ山中渓だ。しかし現在はこの狭い谷間にJR、阪和自動車道、街道でるR64が交差しながら並走しており、昔の面影はほとんどない(45)。しかもR6は交通量が多く歩道もないので歩きづらい。
 山中川もすっかりコンクリートで管理された面白くない川に変貌していた。
 R64を登ってゆくと山中宿の手前に、大阪府最後の王子である馬目王子跡(46)の碑が路傍に建っていた。現在ご神体は山中神社に祀られている。
 その先のR64から左に入る道が、山中宿の屋並みの保存地区である(47-57)。
 保存地区に入ったすぐ左手の土手に誰が建てたか不明であったが諸国霊場巡札碑」なるものがあった(48)。
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  山中神社には八王子神と、馬目王子の両社が祀られている(49-51)。
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  宿の中ほどの土塀の上に山中宿本陣跡地(52)の看板が立っており、かつて参勤交代時代の本陣があった跡地らしい。建物は建て替えられたようだが、広大な庭園がのぞかれた。




   
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  宿場を抜けると再びR64と合流し(57)、そこが南の入口である。JR山中渓駅(58)はすぐそこだ。
 南入口の左手に可愛い道祖神が祀られていた(54,55)。南から疫病が入ってくるのをさえぎり、また旅人の道中の安全を守ってこられたという。 
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 山中駅発15:02発で帰路についたが、此頃には風花が舞っていた。 
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感想:
 元宿場町の信達には街道の雰囲気がわずかに残っていた。山中渓は高速道路、国道、国鉄が狭い谷を並行し、交差して走っており交通量が多く雰囲気が悪い。またかつての山中渓も今はコンクリートで固められ面影はない。山中宿はいかにも整備された感じが強く、かえって興をそがれた。自分としては「琵琶ケ岸懸」がある「平安の小径」が今日のハイライトか?