第6回 布施屋から藤白神社
 2011年 1月14日   約22km 6時間

 橋本経由でJR布施屋 8:50着。
  今日は大事な案内マップを忘れて来てしまった。あるのはガイドブックのみ。行程が心配だ。しかし駅を出て街道に入ると、地元の歴史会の案内が整っており、迷わずに歩を進めそうだ。
  
 約5分で住宅街にある川端王子跡へ到着。管理が行きとどき村民から愛されていることがうかがわれた(1)。

 部落を抜け畑の中の街道を南下する(3)。風情のある井ノ口の街並みを楽しみながら(4)西に急ぐ。 
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 早朝の冬田にサギが群れていた(5)。後ろの山は高積山だ。

 







 約30分ほど歩くと旧中筋家住宅(6-8)に着く。中を見学できなかったが明治20年に改築された県下でも5番目に古い民家だそうだ。   
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 そこから畑の石垣が美しい道(9、10)を行くとすぐに和佐王子跡だ(11,12)。 
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 新しく綺麗に整地され休憩所や便所も整った休憩所になっている。北は越えてきた和泉山系(10)、南にこれから向かう矢田峠が望まれる(13)。 
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 この先数分の山麓に紀州藩弓術指南役で京都三十三間堂の通し矢で8,133本の日本一の記録を作った和佐大八郎の墓がひっそりと眠っていた(14)
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 街道にもどり矢田峠に向かう(15,16)。和歌山に入って初めての峠だ。
 峠道は全てが舗装され道標もしっかりしており分かりやすい。 
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 峠の崖の窪みに地蔵が祀られ花が活けてあった(17)。振り返ると越えてきた和泉山系や紀ノ川筋が眼下に広がっていた(18)。 
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 峠の頂上付近はかなり荒れており、人や車が通った気配はほとんどなく、落ち葉で被われていた(19,20)。 
 19  20
 
 難なく峠を越えると急に視界が開け、みかん畑の遥か彼方に紀州の山々が重なって見える(21,22)。いよいよ紀州にやってきたという感慨にひたりながら峠を下る。

 
 21 22 
 

 地蔵に迎えられながら(23)みかん畑の中の道を、平尾の部落へ下る(24)。 
23  24 
 街道筋には沢山の地蔵が祀られているが、どこも手入れが行き届き、きれいな花が活けてあるのには感銘した(25)。土地の人々に昔から愛されていたということがよくわかる。
 街道筋は道幅が狭く、直線的な道は少なく微妙に曲がっているところが多い(26)。 
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  平尾自治会館前が平緒王子跡だ(27)。案内板と碑があるだけである。
 さらに村に沿って街道を南下し、南海貴志川線を横切ってしばらく行くと路角に六地蔵が祀れている(28)。 
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 その角を左折すると(29)伊太祁曽(いだきそ)神社が鎮座する(30,31,32)。大変由緒ある神社で紀伊國の一の宮である。また木の神様として広く知られ、その他航海安全、いのち神様としても信仰が篤い。








 毎年4月に「木祭り」が行われ、その時デモで作成された世界チャンピオン城所啓二氏によるチェンソーカービングによる干支の作品が展示されていた(33)。

 神社正面の道向かいは古墳公園となっていた。神社にはバス3台の観光客が参拝中で、賑やかでお正月気分が漂っていた。      
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 31  32
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 街道に戻り1.5Km程行くと奈久智王子社跡の看板が石垣の上に立っていた(35)。この王子は和歌山市内最後の王子である。
 これより軽い峠を越え、高速道路をくぐって、高速と並行して約3Kmほど歩くと松坂王子跡がR135の右側にあった(36)。この間に道を間違え四つ石地蔵などは割愛いした。 
35   36
 
 これより汐見峠に向かう。
 峠の上には蜘蛛池がある(40)。
 途中の地蔵に手を合わせ(37)、R135と並走する古道を行くと、蜘蛛池の堤防のわずかな登り坂には古い石畳の道が残っていた(38,39)。
 。 
 37  38
 
 蜘蛛池の畔には大きな徳本上人碑が建っていた(40)。
 この碑は道中あちこちに建てられているが、そこは昔は大変気味の悪い所であったそうだ。 
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 汐見峠の向うはいよいよ海南市だ。現在の峠は余り見晴らしがよくないが、当時は眼前の広い海と美しい景色に旅人が感動し、汐見峠の名が付いたという。
 峠半ばの山側に「呼びあげ地蔵」が祀られている。安政の二年の大地震の時、このお地蔵様の不思議な力に呼びあげられ、多くの人々が大津波から救われ、その名が付いたという(41,42)。 

 これより春日大社にお参りし(43)、その境内にある松代王子を訪ねた(44)。
 ここで昼食休憩15分。
 子の社も古く奈良時代には創建されていたらしい。社の森はコイジ等の照葉樹林で古代の景観を残す貴重なものだ。 
 41 42 
 43 44 
 
 これより今日の最終目的地である藤代神社へ向かう。
 先ず菩提房王子跡が路傍にあった(45,46)。碑と看板があるだけ。
  
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 そこから住宅街となった古道を行くと、やがて左手の山腹に日限地蔵があった(48,49)。 
 なかなか立派な地蔵だ。 
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 境内には源義経、鈴木三郎重家、亀井六郎重清の伝承遺跡供養塔が建っていた。
 平安後期幼少時代の重家、重清の兄弟は、牛若丸が熊野往還に藤代の鈴木家に滞在した時、よく一緒に遊び、源氏再興の時、源氏側に味方しその勝利に貢献したという。 
 境内からは海南市が一望できた(51)。
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 そこからすぐの角が熊野一の宮の鳥居跡だ(52)。
 ここは熊野古道(小栗街道)と近世の熊野街道との合流点にあたる。この鳥居は天文18年(1549)に損失した。
  
 51  52
 
 ここから少し入った山の中に(53)祓戸(はらえど)王子跡があり(54)、往時はここで埃を払い、心身を清め熊野聖域へ入ったという。
 鳥居跡の角を直進し(55)しばらく歩くと右手に「鈴木屋敷」の看板がある。ここは鈴木姓の元祖とされる藤白の鈴木氏が住んでいた所だ(日限地蔵参照)。平安末期、上皇や法皇の熊野参詣が盛んとなり、熊野の鈴木氏がこの地に移り住み、熊野三山への案内役や信仰の普及に努めたのが始まりらしい。  53   54
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  屋敷跡は広く、義経の弓掛松などもあった(56の白い看板)。
 紀伊国名所図会に出ている絵(58)とよく似た建物が(57)建っていたがかなり朽ちていた。近時修復されるそうだが、 痛ましいく感じられた。



 ここの庭園は「曲水泉」といわれ貴重な庭園だそうだ(59,60)。平安時代の頃、曲がりくねった水路に沿って並べた庭石に人々が腰を掛け、上流から流された杯が自分の所に来るまでに詩歌を作り、杯を取り上げて酒を飲み、次へ回すという遊びに使われたそうだ。
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 59 60 
  鈴木邸のすぐ向かいが藤白神社である(61-70)。
 藤白神社は九十九王子の中でも別格とされる五体王子(藤代、切目、稲葉根、滝尻、発心門王子)の一つとして崇敬され、熊野詣途上の要所であった。

 ここでも裏門(61)から入ることになった。
 藤代王子社のシンボルである楠の巨木が立ち、その幹の下に子供の神様である「子守楠神社祀られている(64)。有名な南方熊楠はこの神社の名から授かった。

 門の左手に「藤白王大神社」の石碑が建つ(62)。   
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 境内には藤代王子権現(65)、有馬王子神社(66)、恵比寿神社(67)等、多くの神が祀られていた。  







 後鳥羽院宸筆の「藤代王子和歌会 建仁元年十月九日当座」の熊野懐紙を復刻した歌碑(68)がある。その他芭蕉の句碑なども建っていた。

 
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 その他平安時代、宇多・花山・白川上皇の熊野御幸を記念して建てられた古い記念塔である聖皇三代重石(69)など、見どころが多い。

 境内でしばし休息、往時を偲び、表門(70)から出てJR海南駅に向かった。 
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感想
 
大切な案内マップを忘れどうなることかと案じたが、道標がしっかりしており、武内神社や四ツ石地蔵など一部は見損なったが、ほぼ予定通りに歩くことができた。
 今回の行程はこれまでの中で一番街道らしさが楽しめた。やはりこの辺まで来なければ、熊野路の実感が得られない。矢田峠も塩見峠も全然問題はなかった。
 いよいよこの先が楽しみだ。