第7回    藤白神社から湯浅
2011年1月21日 約24.5km 約8時間
 金剛7:00の準急にて出発、海南8:51着、藤白神社へ直行する。
 旅の安全を再度お願いして出発する。
 境内を出るとすぐ紫川を渡る(2)。この川は万葉集にも歌われた有名な川だが、現在は3面コンクリート張りのドブ川と化していた。

 高速道路の下をくぐり抜けるといよいよ藤白坂だ。少し登ると右手に悲劇の有間皇子の墓(3)がある。658年11月、謀反の疑いで捕らえられこの藤白坂で殺された。
「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」という皇子の歌が歌碑となって建つ(4)。

 
 1  2
 3  4
 ここを一丁として、藤白坂には17の丁石地蔵が設置されている。5,8,10,11,14,18,20,23,25,28,29,32,36,37,38)
  丁石に招かれながらみかん畑の中の峠を登るにつれ (6,7),後方には海南市の展望が広がってゆく(9,13,16)。    
5  6
 
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  丁石が建っているところには、たいがい地蔵が祀られており、旅人を迎えてくれる。 
 9  10
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 峠の道は次第に細くなり、地道で歩きやすい。人と会うことは全くなく、古道の気分は満点だ。 
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八丁を過ぎると(20)急に視界が開け海南港が眼下いっぱいに広がる素晴らしい展望所がある(21,
22)。

  
 20  21 
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  辺りの景色を楽しみながら峠を登ると(26,27)、十二丁あたりから鬱蒼とした竹林に入る(30,31)。うす暗く少し不気味だがそんなに長い距離ではない。 
 30  31
 竹林を抜け下り坂の突き当たりの明るくなった所(33)に筆捨松の伝承遺跡(34)と硯石がある(35)。 
 32  33
 筆捨松は平安前期の頃、絵師巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野権現の化身の童子と絵の描き比べをして敗れ、筆を捨てたという。松の苗木が2本植わっていた。
 硯石は「筆捨松」にちなみ紀州徳川家初代藩主 頼宣公の命により、自然の大石に硯の形を彫らせたと伝えられ、かつては筆捨松の大木の根の途に立っていたという。
 34  35
 丁石と地蔵に励まされながら峠をひたすら登る(36-39)。寒いせいか汗はほとんどでず快適だ。また藤白坂の大半は地道で脚にやさしい。 
 36  37
 38  39
 藤白峠は標高約250mで、峠には人家があり(40)、その裏の石垣の上に紀州四大宝篋印塔の一つが建つ(41)。この辺りはもともとこの下の地蔵峰(ぶ)寺(42)の境内であって、同寺の施設の一つとして建てられたという。 
 40  41
 地蔵峰寺は高さ3.8mの地蔵菩薩座像(43)と本堂(42)が国指定の重要文化財である。 
 42  43
 境内には塔下(とうげ)王子が祀られている(44,45)。

 裏山は「御所の芝」と呼ばれ、「熊野路唯一の美景」で有名だ(46,47,48)。和歌の浦、友ヶ島、淡路島、四国が一望できる。 
 44  45
46
 47  48
 これより一気にみかん畑の中の古道(農道)を下り橋本へ向かう(49-52)。  
 49  50
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 地蔵のある角を道しるべに従って右に曲がり(53)、少し行くと橘王子跡(55)がある阿弥陀寺に至る(54)。 
 53  54
 峠を下りきると加茂川が流れており、そこに架かっている橋が橘本(きつもと)土橋だ(56)。 
 55  56
 土橋を渡った左角には説明板があり(59),往時にはこの周辺に旅籠や伝馬所は立ち並び賑っていた様子が偲ばれた(58)。右角にも石碑と地蔵が祀られていた(57)。 
 57  58
 橋を渡って左に折れ川沿いに橘本の宿場町の雰囲気が微かに残る街道筋を登ってゆくと(60)、やがて所坂皇子跡(62)がある橘本神社が右手に現れる(61、63)。ここは橘の渡来地でもある(64)。     
 59  60
 61  62
 63  64
 街道筋風情を楽しみながら川沿いの道を(65)少し行くと、一壺(いちつぼ)皇子が祀られている(67)山路皇子神社である(66)。
 ここは子ども相撲でも有名であり(68)、境内の右手に土俵が作られていた(66)。   
 65  66
 
 67  68
 道は次第に勾配を増してゆく。街道筋には古い民家が点在し落ち着いた風情が残っている(69,70,
71)。  

 

















 
峠道は延々と続き次第に険しさ増し(72,73)、振り返ると歩いてきた道が遥か眼下に望まれた(74)。
 急坂に喘ぎながら、村の人達は毎日大変だろうなあと思いながら登ってゆくと、崖の上に地蔵が祀られ(75)ていた。 
      
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 71  72
 73  74
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 さらに急坂は続く(76,77)。ここが藤白坂に次いで熊野古道の難所と言われた蕪坂だ。
  
 77  78
  集落を抜けるとみかん畑が峠まじかまで続く(79)。白倉山の稜線には幾つもの発電用の風車が、ゆっくり回っていた(78)。
 みかん畑が途切れると、もう峠は近い(80)。 
 79  80
 坂を登りきると車道が現れる(81)。拝の峠はもうすぐだ。
 車道を少し下ると、右手の道端の柵の扉に看板があった(83)。
 「ここは熊野古道です、いのししの防護柵を設置していますが、ご自由に扉を開けてお通り下さい」と書かれていた。迷わず扉を開け車道から分かれた(84)。
 小路はみかん畑に突き当たり、そこで左右に分かれている。どこを探しても道標がない。左の道は山の方へ登り、右はみかん畑を通って下の集落まで続いている。右の下り坂を選んだ。これが間違いで、これまで沢山あった道標が急に少なくなったのでおかしいなあと思いながら下ってきたら、「熊野古道登り300m」の道標に出くわす。
 仕方なく再度分かれ道まで戻ることにした。しかしこれがまた一苦労で、みかん畑内は良く似た小路が縦横に走っており、どこを通て来たか定かではない。やっと元の分かれ道に戻ったが、やはり道標が見当たらない。ここでかなり体力を消耗したので、とりあえずみかん畑で昼食とした。
 非常にラッキーなことに、農家の人が車で作業にきたので、道を聞くことができた。結局突き辺りを左の山側に登らねばならなかったのだ。
 何のことはない、坂を登ったら再び車道に入り、その先が拝の峠(はいのと)であった(85)。標高は定かではないが約330m。この峠はほとんど舗装されていた。
 結局83の看板が間違いの元である。分かれ道の所にも道標を建てるべきだ。
 拝の峠には往時茶屋があった。ここからの眺望が(85)、紀伊国名所図会の「蕪坂峠茶店眺望の図」(86)とそっくりなのには驚いた
 
 蕪坂とは昔鏑矢で鹿を捕った坂であるところから来た名前らしい

 
 81  82
 83  84
 85  86
 87  88
 拝の峠より宮原に向け坂を下る。
幾つかの名もない地蔵に迎えられ(87,88)、蕪坂(塔下)王子社に着く。
 石碑には万葉集巻九に所収されていて、大宝元年(701)十月に持統、文武両天皇が紀伊国へ行幸されたとき、従者が読んだ歌が刻まれていた。 
 89 90
 さらに下ると(91)太刀の宮に着く(92)。
 宮の名は有田の宮崎城主の三男宮崎三郎定直が真田幸村に招かれ大阪城に行くが、淀君と折り合わず郷里に帰ることになったが、この宮の前で眠っていたところ、刺客が現れた。その時定直の刀が勝手に鞘から抜け出し相手を切り伏せた。一命を得た定直は神仏の御加護と大刀を奉納したことからこの名が付いたという。道案内の神、猿田彦が祀られている。 



 

 はるか眼下遠くに宮原の里を望みながら下ってゆくと爪かき地蔵が現れる(94)。地蔵は立派なお堂の中に収められ中は真っ暗で格子戸からは見えないが、カメラのレンズを格子の間に入れフラッシュをたくと石は写ったが地蔵の姿は不明であった(95)。阿弥陀仏と地蔵が線刻されているという。旅人の疫病を治すと言われている。

 
 91  92
 93  94
 95  96
 さらに下ってゆくと(96)やがて「伏原の墓」がある(97)。熊野参詣の途中、不幸にして亡くなった人々を弔うために建立されたもので、いつのころからかあちこちに置かれていた墓石や板碑等をこの地に集め祀り供養したものらしい。今もなお墓前には花が活けてあった。
 宮原の集落を抜け(98)、有田川の堤に出ると天神社が祀られており(99)、その下の河原が宮原渡し場の跡だ。  97  98
  宮原橋を渡る(100)。橋の向こうの小高い山が糸我峠で、湯浅はまだまだ向こうにある。
 橋より上流に(101)に渡し場があったのだろう。102は橋より下流の景色だ。
 99 100
 101  102
 橋を渡り少し上流に向かうと中将姫ゆかりの寺得生(とくしょう)寺がある(103,104a)。藤原豊成の娘の中将姫は13歳の時糸我の雲雀山に捨てられ、それを助けた侍臣の伊藤春時が彼女を養育したのが安養院で、後の得生寺だという。

 寺の出口角に糸我一里塚があったが(104b)、枯れた松が立っているだけであった。
 103  104a
 104b
 105 106 
 街道を南に少し行くと楠がこんもり茂った糸我稲荷神社が見えてくる(105)。天然記念物の楠の大木の前に白河法皇が熊野への道中、旅の安全を祈願して奉幣された、みぬさの岡の旧跡がある。     
 107 108 
 徳本碑(108)その他意味不明の種々の碑が立つ古道をさらに南へ進むと(109)、糸我王子が祀られている(110)。 
109 110 
 そこから少し行った糸我峠の登り口(111)の左角にも糸我王子趾がある(112)。おそらくここの古のものが110へ新しく移ったものと想像された。
 111  112
 峠はみかん畑の中をどんどん登ってゆく(113)。
 宮原の里はみるみる眼下に遠のいてゆく(114,116)。 道は峠の一部を除きほとんどが舗装されている。
 113  114
 みかん畑が途切れるともうすぐ峠だ(115)。峠の標高は約170mでやはり車道が通ていた(117)。 
 115 116 
 往時峠には糸我茶屋があり、大勢の旅人で賑わっていた(119)。その跡地が残っている(118)。
 そこから南方を眺めると、湯浅へはどうやらもう一つ低い山を越えねばならぬことがわかる(120)。  
 117 118 
 119 120 

 峠から湯浅町下る熊野古道は道六路と呼ばれている竹林の多い明るい下り坂だ(121)。仏教でいう地獄から天上界までの六道をもじって付けられたそうだ。 天明・天保の大飢饉のときには、この周辺の村も食糧難で多くの人が亡くなり、この坂で飢え死にした人は、谷間に葬られたという悲惨な歴史があったそうだ。
 途中夜泣き松などの旧跡があるが現在は看板が立つだけである。
この辺りの古道にはやたら歴史を語る看板が多く、さながら野外歴史館のようであった。重複しているものもあり、余り多いのもどうかと思われた。
 峠を下って吉川の里へ出てすぐ右手に逆川王子(124)のある逆川神社(122)がある。
  近くに3面張りの溝のような逆川が流れていた。逆川の由来は、通常紀州の川は地形上東から西に流れるが、この川は東が低く西が低いために、水が西から東へ逆に流れるのでこの名がついたという。


 ここより標高約50mの方津峠を越えるといよいよ湯浅だ。峠は広い県道で車が行き交う(126,129)。


 途中後白河法皇が熊野詣の途中逆川の近くで休憩されたという腰かけ岩跡(125)や弘法大師が杖を突いて湧きだしたという弘法井戸(126,127)など見ながら登ると、いよいよ湯浅の町の玄関口である方津峠だ(129)。
  
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 峠には小社が祀られ、歴史を語る看板が立っていた。
 現在は湯浅の町並みはあまり見えず、決してよい眺めだと思わないが(130)、昔は素晴らしい景色と町並みが一望できたらしい。。 
 129  130
 

湯浅の北町の古い家並みは見て歩いても楽しいし絵にもなる(131
-135)。道は狭いが連子格子の並家並、どこからともなく微かな醤油の香りが漂ってくる。






 すでに日は陰ってきたが老舗の角長で「金山寺味噌」と「生醤油」を購入し、JR湯浅駅17:25発の普通で帰路についた。

 

     
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感想:
 今回の行程には4つの峠があり、距離もあって、これまでの行程の中で一番疲れたし、脚も3日間ギンギンに凝った。しかし初めて熊野古道らしい道を楽しむことができた。道標はよく完備されていたが、ただ拝の峠の下りにあった猪避けの金網の道標は間違えやすい。そのため小一時間のロスがあり、時間的にも肉体的にも大きなロスをした。また街道筋には由来を書いた立て看板が多すぎるキライもあった。湯浅の町並みは素敵であり、もう一度ゆっくり訪ねたい町である。