第8回 湯浅から御坊 
2010年2月4日(金)  約22.7km 約8時間
 金剛6:35の普通に乗り、三國ヶ丘でJRに乗り換え、湯浅着8:37。
  湯浅駅のガードをくぐり古い家並みが残る早朝の街道筋風情を楽しみながら進むと(1)、右角に勝楽寺がある。寺には入らず寺に沿って裏道を右に進むと突き当たりに立派な紀伊国屋文左衛門の碑が建っている(2)。

 街道を少し行くと右手に垣根に囲まれたの空き地があり、そこが久米崎王子跡だ(3)。
 そこから車道を広川の上流に向け30分ほど歩き(4,5)、新柳瀬橋を渡り(6)、国道をよぎって広川の集落に入る。

 広川の集落内は少し街道の面影が漂う道だ(7)。
 家並みを抜けると広川に突き当たるが、昔はここで川を渡り井関に入ったらしい。また井関王子が川を渡ってすぐの台地にあったらしいが、今はその跡形もない。
 井関王子から約200mの所に津兼王子があったが、現在は湯浅御坊道路の広川IC内に残されている(8)
 
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 街道はR42と並行して井関の集落を抜けている(10)。街道筋の石垣には昔街道筋にあった屋敷が名前入りで細長い壁画に描がれていた。また山の急斜面には沢山の鳥居が立ち並ぶ丹賀大権現社が祀られていた(414)。 
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 河瀬橋を渡るとすぐ左手に徳本上人の字体による天保8年(1837)の飢餓による多数の死者の供養塔が道標を兼ね祀られていた。そこからすこし行った突き当たりの小さな森が河瀬王子跡だ(11,12) 
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 ここから少しの間、古道は路地のように細くなり、その道沿いに桝屋13,14,15)、車屋(16)といった旅籠の跡が残されていた。

  
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  集落を過ぎるとよいよ鹿ケ瀬峠への道だ。はるか先に峠が望まれる(17)。
 ゆるい登り坂が延々と続く。
 古道を通る人も車も見かけない(18)。 
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 道沿いの石垣を削って馬留王子跡(19)があった。その先の道の角に徳山上人の名号碑がある(20)。 
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 「立場跡」という看板が立っていた(21)。ここは昔の乗り物中継所であり、当時はここまでは駕籠、ここから先は牛馬の背に頼ったらしい。 
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 坂は次第に勾配を増し延々と続く(22,23)。
 途中廃道となった古道の分かれ道があり少し登ってみたが、現在は全く通れない(24)。
 
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 行く手遥かかなたの山頂には風力発電の風車がゆったりと回っていた(25)。紀伊半島の海沿いの山の峰には多くの風車が設置されている。
 街道はかなり荒れており、途中猪よけの門なども設置されている(26)。 
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 道は次第に険しくなり高度を増してゆく(27)。谷を隔てた西側の山沿いには峠越えのR42が山裾を縫って通っている(29)。また振り返ると歩いてきた井関・河瀬の集落が遥か眼下に望まれた(28)。 
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 「鹿ヶ瀬峠まで後1,200m」という道標に励まされひたすら歩を進める(30)。
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 道はほとんど舗装されているがかなり荒れている。人が通らないようだ(31,32)。まだ誰にも会っていない。 
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 再び猪除けの門が道を塞ぎ、いろいろ物騒な注意事項が書かれている( 33)。ここからしばらく石畳の道だ(34)。ただしこの石畳は新しいもので、古い石畳の道はこの先の下りにあるはずだ。
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  峠付近に法華壇と書かれた道標があり(35)、20mほど脇道にそれると台地の上に塚があった(36)。
 天台宗の僧・円善が熊野参詣の途上、亡くなった場所で、白骨になりながら念仏を唱えていたという伝説が残されている。
 
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 ここから樹木のトンネルを少しゆくと(37)標高354mの明るい鹿ケ瀬峠の休憩地だ(38)。
 峠は樹木に囲まれた広場で、遠望はできない。
 ここで反対側から登って来られた老夫婦と、走って登ってきた60歳ぐらいの方とお会いした。今日峠道で初めて会った人たちだ。
 情報交換をしながら約15分間休憩後下りにかかった。  

 下り坂の始まりは、まるで樹木のトンネルの中に入っていくような感じである(39)。


 
結構急坂の地道で落ち葉が深く覆っており、歩き心地はよいが滑りやすい(40,41)。

 途中、小峠という看板と休憩所があるところから(42)、全長503mの江戸時代初期に作られたと言われる石畳の山道が始まる(43,44)。古い石畳は風情があるが凸凹で歩きにくい。

峠を下ってくると付近に生える竹の軸が黒味を帯びてくる(46)。これが日高町特産の黒竹で建材や民芸品となる。 
 




 石畳の道は小橋が架かっているところで終わる(45)。







 
さらに下ると「南無妙法蓮華経」と記した室町時代の題目板碑が多数立つ崖があり(47)、その前にある梅畑はかつての法華堂跡で、そこに立っていたものをここに移したそうだ。   

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 黒竹の茂る道を下ると(48)間もなく休憩所があり(49)、そのすぐ下が金魚茶屋跡で江戸時代には宿場町があった所だ(50)。 
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  これより街道は西川に沿って谷合いを下って行く(51)。
 峠を下りきったところで振り返ると、今しがた通ってきた峠が遥かに望まれた(52)。  
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 道は広くなり西川に沿って谷沿いを下ってゆく。しばらく行くと左の小高い所に沓掛王子跡があり(53、54)、弁財天が祀られていた(55)。 
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アスファルトの面白くない道を下って行(56)くとやがて法華経塚遺跡の碑(57)がる。
この辺りは蝋梅が満開だ(58)。これまでの古道歩きで初めて春を感じた。
やはり南紀の春は早い。

 春を楽しみながら歩いているとやがて弘法大師空海が爪で刻んだという爪掻き地蔵さんが現れる(59,60)。館の中の石を覗いてみたが、地蔵らしき跡は分からなかった。凡人には見えぬらしい。 

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 この日は本当に暖かく紅梅も満開であった(472)。
 どんどん下って行くと、後鳥羽上皇が休まれたという一抱えほどの4つの石がある四ツ石(473)だ。何の変哲もない面白くもない石だ。 
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 やがて道の左手に馬留王子跡が見えてくる(63)。
 前にも言ったが、ほとんどの王子跡は新しく作られたワンパターンの遺跡の紹介と石碑で、次第に興味が薄れてくる。オリエンテーリングで順に番号札を探すのと同じような感覚だ。
 
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 その先の地蔵さんが並ぶ光明寺の角から古道は車道から分かれる(65)。すでに13時を過ぎていたので境内で昼食とする(66,67)。
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 20分間の食事休憩の後出発。







 古道は車道と交わり離れつしながら平野部へと続く(68,69,70)。
 脇道に入ると古道の風情が残っており楽しい(68,69)。

  
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  途中、黒竹の集荷場があった(480)。



橋を渡り広く開けた田圃道に出て少し行った丘の麓に内ノ畑王子跡があり、小さな神社があった(72,73)。

  
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 さらに田畑の中の広い古道を進むと、写真の丘が途切れる辺りに(74)、高家(たいえ)王子跡のある内原王子神社の森が見えてくる(75)。
 この神社はなかなか趣のある立派な神社であった76,77,78)。 
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 神社の入り口近くを流れる川の少し下流に「愛子の淵」と呼ばれる由緒ある淵があるそうだが行けなかった。 
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 これより国鉄のガード下をくぐり道成寺へと向かう。道成寺は遠くに見える小高い山の向こうだ(79)。


 道は車道となり面白くない。ひたすら歩く(80)。
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 低い峠にかかる。坂の途中に一里塚跡があり(81)、さらに登ると(82)、峠の頂上付近の右手に大池がある。池の奥には弁財天山古墳があるらしいが割愛した。
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峠を過ぎるとゆるやかな下り坂となり、途中の分かれ道に道分け地蔵が祀られている(83)。
 坂を下ると遠くの山裾に道成寺の屋根が遥かに見えてきた(84)。

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 道の右側に広場があり、その奥まった山懐に善童子王子跡がある。かつては馬かけの馬場があったそうだ(85,86)。 
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冨安川の橋を渡る手前に徳本上人名号碑があり、富安橋を渡ると道成寺がはっきりと見えるようになる(87)。



 急カーブでカーブミラーが2つ立っている向かいの家の横の細い裏道に入り進むと、畔道の向こうに新しい人家が2軒見えるが(88)、その手前の細い畦道を右にとると密生した竹やぶに入り(89)、その奥の右側に入った広場の奥に愛徳山王子跡があった(90)。
現在では分かりにくい場所だが、昔の古道はこの辺りを通っていたのだろう
 人家まで戻ってくると、向こうの山に道成寺の屋根がはっきり見えた。

  
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 途中吉田八幡神社があったが余りの石段の長さに、下から参拝するにとどめた(93)。

安珍・清姫で有名な道成寺はさすがに大きな立派なお寺で見所が多い(94-99)。
 しかし、以前に来たこともあり、日暮れも気になったのでそこそこで去った。

 











    裏参道を下りたところのストアーの右手の奥に清姫蛇塚(101)がある。
背後に見える小山は吉田八幡神社の境内だ(100)。

 ここから今日の最終目的地JR御坊駅向かかう。
 吉田八幡神社の山裾を川に沿って西へ向かう。

途中のお地蔵さまには誰が活けたかきれいな花が供えられていた(102)。
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 さらに少し行くと吉田橋の前の山裾に海士王子が祀られておいた(103,104*)。

*104は王子を通り過ごし、吉田橋から振り返って撮ったた写真
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  見事に色付いた夏ミカンに見惚れながら(105)川沿いに鉄道に沿った道を急ぐ。
遠くに何か銅像さらきものが見える。近寄ってみると田圃も道端に極彩色のお姫様の像が立っている。宮子姫の像であった(106)。

 
和歌山県出身の有吉佐和子が、「火の恋に命をかけた清姫よりも、道成寺がご縁で有名になった髪長姫(宮子姫)の方が好きだ」と言ったことから建てられた新しい像らしいが、この地の風情からはかけ離れた奇異で異質な印象を受けた。
 ここより駆け足で歩き御坊駅16時27分発の列車で帰路に着いた。
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  感想:
 峠が多くなり苦しいけれど、益々熊野古道が楽しくなってきた。自然に触れる機会が増えたのと、素朴さが残っているからである。これから先が楽しみだが、そろそろ花粉飛散の時期でもあり、アレルギーに悩まされることになるだろう。また往復に時間が取られ、この先はいよいよ宿泊が必要だ。中辺路、大辺路のどちらを先に歩くかも検討せねばならないし、宿の予約や移動方法など、さらに綿密な計画が必要だ。