城南宮(中書島ー城南宮ー三条)
2011.1.27  約22km
 2011.1.27,夕方5時から京都三条で中学時代の新年会があるので、この機会に熊野詣が始まった根拠地とも言うべき城南宮近辺の探索を主に、中書島から三条まで歩くことにした。

 京阪電車で淀川を渡り(1)、中書島駅10時出発。

 昔、遊郭だった街を通り抜け、疏水(2)を渡って寺田屋(3)へ向かう。寺田屋は過去に2回ほど来ているので、外観だけを写真にとり、商店街を抜けて下油掛町の西岸寺により、「我衣にふしみの梅のしづくせよ」の芭蕉の句碑を見る(4)。
 

   
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 油掛通り(6)は、江戸時代伏見港に近く、京・大阪へ行き交う旅人で大いに賑わったという。
 竹田街道との交差点の角に、説明板と明治28年、下油掛より京都駅を結ぶ、我が国最初の電気鉄道事業発祥の地という石碑が建っていた(5)。
 
 
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 現在の竹田海道はR115となっており、交通が激しく昔の面影は全くない(7,9)。

川も三面張りの用水路だ(8)。







 ただ街角にお地蔵さんが祀られているのは街道の名残りかもしれない(10)。
   
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 約2.5km北上し、近鉄京都線の高架をくぐり、一つめの角を左折すると、北向不動尊の大きな石碑が建っている(11)。

 これを真っすぐ西に直進すれば城南宮道だ。

 阪神高速道路をくぐり抜け、さらに西に直進すると(12)、その突き当たりに城南宮の鳥居が見えてくる(13)。

 境内には真幡寸神社(14)、芹川神社(15)などがあり、その奥に城南宮本殿がある(17-22)



 城南宮の入口には、万病に効くという菊水若水がある(16)。
 奈良のお水取りの水は、若狭の国から、この菊水若水の井を経て、二月堂の若狭井に達しているとも伝えられている。


 城南宮は平安都選の際、都の南に国の守護神として創建され、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)、神功(じんこう)皇后をお祀りする。
 この地に白河上皇によって城南離宮(鳥羽離宮)が造営されると一層崇められ、城南祭では流鏑馬(やぶさめ)や競馬(うまくらべ)が行われた。
 また離宮は方違(かたたがえ)の宿所や熊野詣の精進所となり、方除(ほうよけ)の信仰が高まった。
 承久3年(1221)、後鳥羽上皇が城南流鏑馬の武者揃えと称し兵を集め、鎌倉幕府との間で承久の乱が起きたことは名高い。
 江戸時代以降大いに賑わったが、慶応4年(1868)正月、城南宮に陣を構えた薩摩藩の大砲が轟き、鳥羽・伏見の戦いが始まり、明治維新を迎えたことは余りにも有名だ。
 






 既に昼を過ぎていたので、京阪国道沿いのラーメン屋で昼食。
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 R1(京阪国道)を渡ったところに鳥羽離宮跡が公園となっている。
 公園の北を占める丘と森は(21、22)は、当時の離宮の庭園の築山だった。
 写真21の橙色の石碑には、この地から戊辰戦争が始まったという謂われが記されている。宮殿は公園の南方にあったらしい。
 元来、鳥羽離宮というのは、ここの南殿とは離れて、北殿、田中殿、馬場殿等がある壮大な離宮であった。それらは淀川とつながる大きな池沼の川岸に配置されていたらしい(42)。
 現在は公園の西側に鴨川が流れている(23)。
 再び城南宮に戻り、神苑「楽水苑」(24)を見て、鳥羽離宮の創設者白河天皇陵等がへ向かう。

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 白河天皇成菩提院陵(25,26)は阪神高速道路と新城南宮道の交差点の北西部につつましやかに位置していた。 
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 これより高速道路をくぐり、新城南宮道との交差点北東にある北向山不動院(27,28)を通り抜け東殿方面へ向かう。
 北向山不動院は大治5年(1130)鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮内宮に創建され、興教大師を開山としたのが当時の起こりである。本堂の不動王(重文)を王城鎮護のために北向きに安置したため、上皇から北向不動院の名を賜ったという。
 境内の北側は 鳥羽天皇安楽壽院陵だ(29,30)。

 

 
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 その東南の角の路傍に白河法皇、鳥羽法皇院政之地と書かれた石碑が建つ(31)。 その角を東に曲がると、右側は小さな堀の向こうに森があり、そこが近衛天皇安楽壽院南陵、左側には三宝大荒神、安楽壽院が軒を連ねる。

 三宝大荒神の入口には平安時代の三尊石仏が祀られていた(32-34)。
   
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 三宝大荒神の右手は安楽壽院収蔵庫で(35)、その周囲にはこの地域の発掘調査で発見された庭園の景石をそのままの状態で移築展示されている(36,37)。 



 安楽壽院(33-41)は保延3年(1139)鳥羽上皇が鳥羽離宮を寺に改めたことに始まる。
 保延5年、本御塔(ほんみとう)と呼ばれる三重塔が建設され、次いで九躰阿弥陀堂、閻魔堂、不動堂等が建てられた。
 保元元年(1156)、鳥羽法皇は本御塔に葬られ、その後鳥羽天皇安楽壽院陵(29,30)に移つされた。


 この辺りは史跡の宝庫であり、境内には(財)京都市埋蔵文化研修が設けられている。


 










    
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 道を隔てた南側は、近衛天皇安壽院南陵だ(43,44)。 
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 これより稲荷神社方面へ向かう。
 途中、街角に祀られている大明神(45,46)やお地蔵さん(47)に迎えられながら、地図もなく大体の方角を定めながらあてずっぽうに歩く。
  
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 疏水と京阪電車を渡り、45の地蔵さんの裏から広い境内に入ると、そこは稲荷神社であった(48,49)。   47 48 
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 さらに東山山裾を北に向け進むとやがて東福寺の国宝山門(三門)が現れる(50-52)

 東福寺は臨済宗東福寺派の大本山で、藤原道家が嘉禎2年(1236)、東大寺、興福寺と並ぶ大寺院の建立を発願し東福寺と名付け、禅僧円爾弁円(えんにべんえん)を開山に招いて、建長7年(1256)完成した。




 紅葉の名所通天橋を東に見て東福寺を去り(55)、本町を北へ向かう。



 途中瀧尾神社に立ち寄る(56)。この社の創建、由来は明らかではないが、天成4年(1586)豊臣秀吉の方広寺大仏殿建立に伴い、この地に移って来たと伝えられている。江戸時代後期の中規模神社の形態を知る上で貴重であり、市の指定有形文化財に指定されている。

 
 
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 新幹線を歩道橋で渡り(57)、さらに北へ向かうと、広い豊国神社の正面通りにでる。道の南に耳塚がある(58)。
 耳塚(鼻塚)は秀吉が朝鮮半島に侵攻したとき、配下の武将が、古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にし持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ供養の儀が持たれたという。

 豊国神社(59,60)は豊臣秀吉を祀る神社でる。 
  
57   58
 59 60 
 大和大路道を北上し五条通りを横切ってさらに北上すると右側に臨済宗建仁寺派の大本山建仁寺が建つ(61,62)
  
鎌倉時代の建仁2年(1202)、臨済宗の開祖栄西禅師により創建された。
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 建仁寺の前には禅居庵(63)、久昌院、堆雲軒、興雲庵などが建つ。




 道の反対側には恵比寿神社(65)が祀られている。  
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 さらに北上し四条通りを越えると白川に掛る大和橋だ(66-68)。
 もう今日の最終地三条は近い。 丁度時間も5時前だ。
 みしな会の連中と飲むビールはさぞかし上手いことだろう。
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感想:
今回は探索しなかったが中書島界隈は疏水、寺田屋、伏見の酒蔵など結構面白いところがあり観光客も多い。
竹田街道は国道になり、全く面白くなかった

城南宮はなかなか見ごたえがあった。遺跡の集積地だ。
しかし、歴史を相当勉強していかないと、その値打や関連性がわかりずらい。
今回も、見逃しているところが結構あったことが、後になってわかった。
東山山麓は有名な寺院や神社が多く、1回や2回でとても回り切れない。
京都は戦災にあっておらず、どこを歩いても落ち着きのあるたたずまいが残っており、大阪や堺の街では到底味わえないでは洗練された重厚な古都の貫禄がある。